物覚えが悪くなったのはいつ頃からだっただろうか、今となっては思い出せない。小学校の時から忘れ物は多かった人間だが、明らかに、最近、一皮むけたのだ。特に固有名詞だ。正解の直前までわかるのに「あれ」としか言えないもどかしさ。最近、物忘れがひどいんだよ…と友人に言ったら、「俺、今日、カタカナの“メ”が思い出せなかった。」と言われた。お互い、年である。“メ”がだめだったら、もうあとは“ノ”しかない。土俵際である。
本書には、脳の「ワーキングメモリ」がいかに重要な機能か、さらに、どうすればそのワーキングメモリを強化するできるかが記されている。著者はノースフロリダ大学の心理学教授で、以前はスターリング大学生涯記憶・学習センターの所長だった人である。表示に書かれた副題は、「Train Your Brain to Function Stronger,Smarter, Faster」。私は迷わず手に取り、レジに向かったのだ。
そもそもワーキングメモリとは何か。本書によれば、ワーキングメモリは「意識して情報を処理する機能」のことであり、いわば、脳の「指揮者」であるという。短期(即時)記憶とはちがう機能だ。また、『記憶のしくみ』によれば、ワーキングメモリ(作業記憶)はこのように説明される。
具体的には、ワーキングメモリは主に下記の2つの機能をはたす。
- 複数あるタスクの優先順位をつけてから、情報を処理する。関係のないものは無視し、必要な情報から処理できるようにする。
- 情報を利用して作業できるよう、保管する。
ワーキングメモリが日常生活における「選択と集中」を行っているのだ。その機能は前頭葉にあり、物事をすばやく考えたり、賢くリスクを冒したり、効率的に学習したり、新たな環境に適応し、モチベーションとポジティブな思考を維持するために活動している。
知識の量ではなく、知識を使って何が出来るかを司るのがワーキングメモリである。また、「自分が自分である」という認識、心理学者が言うところの「心の理論」にもワーキングメモリは欠かせないという。
では、それは鍛えられるのだろうか?5年ほど前までは、ワーキングメモリは生まれつき変わらないと考えられていた。しかし、さまざまな研究により、ワーキングメモリは改善できることがわかってきた。遺伝的な傾向があるとしても、たいていの人は自分のワーキングメモリを強化する事ができる。
本書は、後半8章を費やしワーキングメモリを強化する方法を紹介する。食生活の章では、あるサプリメントが子どもに劇的な変化を与えた(“本を夢中になって読むようになった”)というBBCの番組を紹介し、また「7つの習慣」の章では、睡眠、整理整頓、運動等が与える良い効果について説明する。Facebookの活用や、仕事中のいたずら書きが良い習慣だというのは興味深い。カロリー制限はワーキングメモリにも効果があるらしい。バランスをとりながら縁石の上を歩く運動が良いそうだ。本書には、これ以外にも様々な情報がかかれている(章末のエクササイズやレシピまである)。
また、著者は、チェスの女性のグランドマスターであるスーザン・ポルガーと、YoutubeInstantを開発したスーパープログラマーのフェロス・アブーカディジェにインタビューを行い、ワーキングメモリを活用できるスペシャリストの秘密に迫る。最新の調査結果にも目を通した結果、著者は、ワーキングメモリのスペシャリスト達は遺伝的に決まっているわけではなく、もっとも賢い方法で使う能力を高めた人たちであると結論づけた。本書は「コードブレーカー」「ブートストラッピング」「チャンキング」の3種類のテクニックを紹介する。「コードブレーカー」は、「記憶するべき対象」そのものではなく、そこにある法則を見出して記憶する方法だ。また、「ブートストラッピング」は、記憶するべき情報を視覚化されたストーリーと紐づける方法であり、「チャンキング」は関係性を利用したり、モジュール単位にシンプル化したりして情報をグループ単位にまとめていく手法である。これ以外にも、本書には実用的な知見があふれている。個人的には、スポーツがうまくなるためには疲れている時に練習したほうが良い、というものがおもしろかった。
360ページに及ぶ本書であるが、生まれてから老いるまでのワーキングメモリの変遷の説明から、ワーキングメモリに優しい都市デザインまで、構成がおもしろく、あっという間に読み終えてしまう。よし、明日からは、バス停まで走ろう。裸足で走ろう。明日からは、部屋をかたづけよう。明日からはシカの肉を食べよう。そして、ワーキングメモリを向上させるのだ。そしてもし憶えていたら、明日この本を友人に送ろう。社内便で送ろう。たぶん、“メ”をおぼえているのは「長期記憶」だけれど。