「わかる」ことと「わからないこと」のはざまで
恥ずかしい思い出話からはじめよう。
私にとって小林秀雄の批評は高校生時代の愛読書だった。当時は文庫でかなり出ていたから、文庫にあるものはすべて読んだ。初期の「様々なる意匠」も当然読んだ。それで、文学青年でもあった担任の国語の先生に、「こんど、「ようようなるいしょう」を読みました」と、自慢げに報告した。一瞬間があって、先生は「そうか」とだけ言った。
大学生になればさすがに、これはこの批評が書かれた当時流行していたイデオロギーを「さまざまなる意匠」にすぎないと喝破した、小林秀雄の原点をなした批評だとわかった。高校生時代の恩師の「そうか」という一言がここで効いた。恩師が賢しらに「さまざま」だと訂正しなかったことが、私のその後の理解を深めたように思う。
教育は、こういうものかもしれない。今度、小林秀雄の「対話集」を読みなおして、彼の放言に近い言葉の数々も、「そうか」であるように感じた。効いてくるのはいつかわからないが、それはきっとその言葉がその人に必要になったときだろう。
だから、小林秀雄の批評は入試問題には不向きなのだ。私が高校生の頃は、高校入試の中村光夫、大学入試の小林秀雄と言われていた。実際さかんに大学入試に出題されていた。没後30年記念だったのだろうか、今年(2013年)に行われた大学入試センター試験の現代文の第1問に、珍しく小林秀雄の文章が出題された。「鐔」である。それが、受験生を混乱させたようだ。
国語の平均点が下がったのは、小林秀雄のせいだとされたのだ。事実、予備校関係者によると、問題文を見て受験生が泣きだしてしまった会場が複数確認されているという。大学の入試問題には2つの意義があるはずだ。1つは、高校までの学習が身についているかを確かめること。もう1つは、大学に入学してから研究ができる能力があるかを確かめること。今回の問題は、いずれの観点からしても失格である。高校の国語教科書にはこの手の文章は収録されていないし、大学に入学してからこの手の文章を書いたのではレポートや論文にはならない。
いま、小林秀雄の文章は高校教育現場ではほとんど扱われていない。受験勉強でも、評論は小林秀雄から大岡信、山崎正和、中村雄二郎、そして鷲田清一に取って代わられるようになった。だから小林秀雄はほぼノーマークだったろう。しかも、問題文を見てこれはひどいと思った。注が21。これだけ注をつけなければならない文章を選ぶべきではない。しかも、はじめの一字「鐔」にいきなり注がついているのだ。出題者はテーマとなっている「鐔」を受験生が知らない可能性があると認識しながら、問題文を選んだことになる。非常識である。小林秀雄がというよりも、問題文の選定がまちがっていた。それに、小林秀雄は試験会場で読むものでもない。あとでゆっくり効いてくるのだから。
小林秀雄の文章にはある種の型がある。「学問」や「現代」を否定しながら、その時代の実用性が美を鍛えたという結論に至るのである。出題された文章も、刀の鐔が美しさを持ったのは美についての思想があったからではなく、実用性の中から自然に生み出されたものだと説いている。ただし、根拠が示されるわけではない。だから、効いてくるには時間がかかるのだ。
幸い新潮文庫に収められているが、小林秀雄に『人間の建設』という、昭和40(1965)年に数学者の岡潔と行った感動的な対談がある。感動的なのは、小林秀雄が「それでわかりました」と言ったところだ。それは、もちろん「わかりません」から出発している。岡潔が、最近の数学は「観念的」あるいは「抽象的」になったと言ったら、小林秀雄は数学とはもともとそういうものではないかと食い下がるのだ。
岡潔は言葉を尽くして、たとえば「矛盾がない」というのは究極的には「感情」の問題なのに、いまの数学はその「感情」を納得させることができていないと説明する。それで小林秀雄はようやく「それでわかりました」と口にするのだ。その間、文庫本で約20ページ。大学生の時にこの「それでわかりました」を読んだときには、「わかるということは、こういうことか」と心から感動したことを、いまでも鮮明に覚えている。
この「対話集」、『直観を磨くもの』の白眉が、量子力学で日本人初のノーベル賞(物理学)を受賞した湯川秀樹との対話「人間の進歩について」であることは、まちがいない。そこには小林秀雄の「わかりません」があふれている。
小林秀雄の根本的な疑問は、「確率」というものについてである。小林秀雄が「確率」に強い関心を持つのは、これが時間論や宇宙観と深い関わりがあると考えているからだ。
話を単純にすれば、あることが50パーセントの「確率」で起こると仮定されれば、2回のうち1回は起こり得ることになる。しかし、その2回目がいつやってくるのかは誰にもわからないのだ。自然にもそのプログラムは組み込まれていないと言う。つまり、それが起こるか起こらないかさえ決められないことになる。それでは、「確率」は意味をなさなくなる。たんなる「偶然」でしかない。
そもそも、「確率」が言えるためには時間が一定方向に直進していなければならない。もし仮に完全に円環する時間があるなら、出来事は繰り返しとさえ認識されないだろう。そうなると、宇宙には「はじめ」と「おわり」がなければならなくなる。湯川秀樹はそう言っている。だとすれば、その「はじめ」と「おわり」の間に、「偶然」に左右されない「確率」は成立するのではないか。小林秀雄の疑問の根本はここにありそうだ。
そこで、小林秀雄はこの点を何度も言葉を換えて湯川秀樹に質問する。その結果、湯川秀樹から、「偶然」についてこういう言葉を引き出すのである。
そこに、やはり人間的な尺度の問題があると思う。つまり人間的な立場で言った偶然という問題は、科学の立場で言っている偶然とはよほど違うけれども、何かそこのところへ非常に遠廻りしてでもどこかで繋がっているのだろうと私は思うのです。(64頁)
湯川秀樹は「量子論というのは自然現象に不連続性があるということなのです」(85頁)とも言っている。しかし、あまりにも低い「確率」について、それを「偶然」と見るかどうかは人間の問題だということだ。だから、「自由」というものも科学が考える「必然と偶然」の問題からは解決できず、これも「人間的なもの」だと言う。小林秀雄は昭和23(1948)年の時点で、湯川秀樹を後年に岡潔と対話した地点まで連れて行っていたのである。この小林秀雄の「わかりません」が感動的でないはずはない。
さらに付け加えれば、小林秀雄はこの湯川秀樹との対話で「二元論」問題でも食い下がっている。そして、湯川秀樹から自分は「二元論」の立場にあると言わしめている。これを乱暴に言ってしまえば、湯川秀樹に宇宙は2つあると発言させたのである。これは量子力学から導き出された多元宇宙として、文学のモチーフにもなっている。最近では、東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、河出文庫)がそれを試みている。
こう考えれば、小林秀雄の問いは、すぐれて文学的な感性によってなされたものだったことがわかる。それが、当時すでに世界的な物理学者・湯川秀樹(ノーベル賞受賞はこの対話の翌年)から、これだけの言葉を引き出すのである。繰り返すが、それは小林秀雄の徹底した「わかりません」がもたらしたドラマだと言ってもいい。
小林秀雄は湯川秀樹との対話で「具体的」ということをしきりに強調しているが、これは小林秀雄の真骨頂だろう。たとえば、「伝統は物なのです」(折口信夫との対話232頁)といった言葉にそれが端的に現れている。あるいは、芝居について「根本は俳優ですよ」(福田恆存との対話280頁)という言葉や、すばらしい芸術家について「職人なんだ」(永井龍男との対話370頁)といった言葉も、同じ確信から出たものだった。
大学入試センター試験に出題された「鐔」は、まさにその確信から書かれた随筆だった。小林秀雄流に言えば、「美は物である」となるだろう。長い間判じ物のように議論されてきた、「美しい花がある、「花」の美しさという様なものはない。」という名文で多くの読者を悩ませた、能の「当麻」について書いた随筆も同じだ。「美しい花」という「物」はあるが、「美しさ」は人間が勝手に作り出した観念にすぎないから信ずるに値せず、と言っているのだろう。
そこで、こういうことも言い出す。今日出海との対話で、歴史研究について触れたところである。
小林 誰だって歴史の外には出られまい。歴史家だけが出られるという道理はあるまい。だから出られる振りをするだけだ。出られる振りをして見せるのが歴史研究というものか。それなら、学問は常識から離れてしまいますよ。
今 常識から離れなければ学問じゃない、と思うような連中がいる。文学だってそう思っている文士がいるようにね。
小林 そうなんですよ。源は常識だ。誰でも知っている事を、もっと深く考えるのが、学問というものでしょう。(453〜454頁)
よけいなお世話だという気もするし、なるほどそうだという気もする。少なくとも、いまでも「学問」はこの言葉のまわりをぐるぐる回らざるを得ないと思う。
(平成25年12月、早稲田大学教授)
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