今年は小説が豊饒だ。僕と同年、定年退職した65歳のハロルド・フライのもとに、ある日、1通の手紙が届く。かつての同僚のクウィーニー・ヘンシーからだ。彼女はがんで死にかかっているという。ハロルドは、返事を書き、ポストに向かいはしたものの、どうしても投函できない。20年前の彼女のハロルドに対する誠実さに、この返事は全く見合っていないからだ。次のポストを求めて歩き始めたハロルドは、途中、ガソリンスタンドの女店員と話した後、突拍子もない考えに取りつかれる。クウィニーのところまで歩いていけば、彼女の命が救えるのではないか、と。こうしてハロルドは、何の準備もないまま英国の南西端の小さな町からスコットランドとの境にある小さな町ベリックまで、87日間、1008.8キロを歩いて通すことになるのである。
しかし、以上の筋道は、あくまでも単なる舞台装置に過ぎないのだ。演じられるドラマは、年老いたハロルドと、その妻モーリーンの再生の物語なのだ。不孝な生い立ちを持ち、内気で仕事も冴えないハロルドは、育ちの良い妻と賢い息子に気押されて、家庭でもひっそりと生きていた。夫婦は寝室も別で、仲は冷え切っている。無謀な旅に出たハロルドは、次々と奇妙な人々に出会う。ジェイン・オースティン命の女、銀髪の紳士、サイクリング・ママ、スロヴァキアから来た女性の医師、超有名な俳優。これらの奇妙な人々は、実はハロルドを映す鏡なのだ。それぞれがハロルドと同じように心の中に深い闇を抱えて生きている。その闇の深さが、ハロルドの心の中を照らすのだ。そして、間奏曲として、瑞々しいイングランドの大地が、草花が、物語に彩りをつける。一方、置き去りにされたモーリーンは、近所に住む妻を亡くしたレックスが、優しくサポートする。こうしてハロルドとモーリーンは自分の周囲に何重にも固く張り巡らせた氷の壁を、少しずつ溶かし始める。ハロルドは、しばしばモーリーンに電話をしながら。
しかし、事はそう上手くは運ばない。メディアが偶然にハロルドを取り上げたことで、ハロルドは一躍有名人になり、有象無象の同行者が現れるのだ。モーリーンはレックスとハロルドに会いに行く。まだまだ、雪溶けには早い。同行者は膨れ上がり、そしてあろうことか、同行者のリーダーが巡礼団を組織して、ハロルドを置き去りにして、先にベリックに行ってしまうのだ。残されたハロルドは最後まで付いてきた犬にも捨てられる。
ベリックを直前にした、あるいはベリックでのハロルドの、リア王を彷彿させる、いわば荒野の放浪は、最後の氷の衣を脱ぎ捨てる通過儀礼のようなものかも知れない。そして、27章で衝撃の事実が明らかにされる。作者は、間違いなくこの1章を書くために、ここまで読者を引っ張ってきたのだ。誰しも熱いものが内奥から込み上げて来るのを、恐らく押さえ切れないだろう。僕も涙が出た。
クウィーニーはハロルドに会った後、穏やかな死を迎えた。そして、ベリックの浜辺で駆け付けたモーリーンとハロルドは再生する。旅のきっかけを作ったガソリンスタンドの女店員が大団円を準備した。そして、二人は生まれ変わったのだ。読み終えて思った。人間は、何と愚かで、優しくて、素晴らしい生き物なんだろうか、と。老境に入りつつある全てのシニアに、この32章からなる温かい物語を読んでほしい、と、心からそう思う。クリスマスにでも。
出口 治明
ライフネット生命保険 CEO兼代表取締役会長。詳しくはこちら。
*なお、出口会長の書評には古典や小説なども含まれる場合があります。稀代の読書家がお読みになってる本を知るだけでも価値があると判断しました。