辞書を引く、という言葉はすでに死語なのかもしれない。なんといっても電子辞書やコンピューターでの検索が速くて便利である。辞書をひいたついでに、まわりの単語をチラ見しながら、ふむふむそうか、というようなという楽しみがなくなってしまった。紙の辞書を捨てたわけではないのだから、いつでもできるのであるが、わざわざするようなことでもない。
かつては、ジャポニカ百科事典のような二十巻もあるような百科全集がけっこうたくさんの家庭に置かれていた。我が家も例外ではなく、ときどき読んだりしていた。もちろん、頭から読み進めたわけではない。誰だったか忘れたが、小説家になるために一念発起、広辞苑を最初から最後まで読んだ作家がいたと読んだことがある。いったい誰だっただろうか。むかしテレビで放送されていた『たほいや』なんかも、紙の辞書でないと雰囲気がでないような気がする。
敬愛してやまない永田和宏先生は、『岩波現代短歌辞典』と『分子生物学・免疫学キーワード辞典』という、文理二冊の辞典編纂を成し遂げられたという本邦辞典界の巨人でもある。さすがは永田先生、高校生時代から、ある言葉を引くとき、広辞苑のおおまかな場所がわかったという。しかし、もう、そんな特技を持つような人は出てこないだろう。
そんな時代、引くよりも読むための辞典というものの可能性を示してくれたのが、この『パン語辞典』である。とおしで読んでなにしろ楽しいエンターテインメント系辞典。考えてみたら、子供時代には、言葉を覚えるための絵辞典や図鑑を読んでいた。大人になっても楽しめるそんな辞典があってもいい。この本、そんなに楽しめた理由は三つある。
ひとつは、なんといっても、パンについての知識が増えたこと。しょっちゅう食べるわりには、パンのことをいかに知らないかがよくわかった。たとえば、よく売られているエピ。そんなこと調べればすぐわかるのであるが、なんのことか知らなかった。フランス語で麦の穂らしい。なるほど、そう言われると、エピは麦の穂にしか見えないではないか。
エピについで例をあげると、カイザー。日本ではそれほど一般的ではないが、ドイツでは最も一般的なパンの一つである。そのフルネーム、『カイザーゼンメル』の項には、オーストリアの小さな国旗が添えてあって、
オーストリアで誕生。皇帝の王冠に似ていることから「カイザー」と名付けられました。ドイツでもよく食され、焼きたてがおいしいことから「2時間パン」とも呼ばれています。水平に切って中に食材をはさみこみ、サンドウィッチとして食べるのが美味しい。ハムとオニオンスライスをはさんだ『志津屋』(京都)の「カルネ」は、シンプルながら京都人の定番おやつ。
とある。そうか、王冠やったんか。解説は簡潔であって、多いものでも7~8文、短いのは、武士の一分ではなくて、パンの一文でしかない。
ふたつめの理由は、すべての項目につけられている図の美しさ。『カイザーゼンメル』には、カイザーゼンメルの絵と、王様がカイザーゼンメルみたいな王冠をかぶった小さな絵が描いてある。エピにはもちろんエピパンと麦の穂。そして、なぜかそっと手を出す男の絵。中には写真もあるけれど、多くはパステル調のイラスト。どれもシンプルにして、じつにわかりよいのである。
そして三つ目の理由は、『カイザーゼンメル』の最後にあるような文章。おいっ、それがどないしてん、多くの人にはどうでもええやろっ的な内容が書かれているのがおもしろいのである。そうなのだ。『ぱんとたまねぎ』さんの趣味が如実にあらわれていることこそがこの辞典の強烈なおもしろさになっているのだ。
ところで、『エピ』の二つ下に『黄檗』という項目がある。黄檗といえば、黄檗山萬福寺、ご存じ隠元禅師を開祖とする黄檗宗の大本山である。この項目を見たとき、そうか、禅宗では普茶料理のひとつとして麬(ふすま)みたいなパンを出すこともあるのか、と思った。が、違う。
力強いパン屋さん『たま木亭』のある駅。ひとり京阪神パンツアーをしていた時に訪れて衝撃を受けたお店です。疲れ果てたツアー最終日、行こうかどうか迷った末に訪問し、小さなパン屋さんから立ちこめるなんともいえないパワーを感じました。帰り道は自分にも力が湧いてきたのを覚えています。すばらしいパン屋さん住宅地にある!と勝手に方程式を作ったものです。「堅焼きバター」というバターがたっぷりしみこんだフランスパンが当時好きでした。
そうなのである。多くの人にはまったくどうでもいいのである。まるで日記なのである。しかし、それがおもろいのである。辞典というのは、ともすれば無味乾燥になってしまいがちだ。しかし『パン語辞典』はちがう。パンのふんわりしたやわらかさ、やきたてのあたたかさ、かみしめたときのあじわい、そういったものがぎっしりつまっている。
その黄檗とエピの間にはさまれているのは『エルヴィス』。「アメリカのロックミュージシャン、エルヴィス・プレスリーの大好物だったとされるサンドウィッチ。(以下略)」とあって、プレスリー(と思われる)似顔絵がそえてあったりする。まさかエルヴィスも、たま木亭とエピの間にサンドウィッチされる日がくるとは思わなかったろう。。
ちなみに『たま木亭』というのは、宇治の自衛隊駐屯地の前あたりにある、小さなパン屋さんだ。いつも行列ができていて入店したら一方通行で一周する間に、たくさんある中から美味しそうなパンを選んでトレーにとらなければならないという、パンとの一期一会、真剣勝負を強いられるパン屋さんなのである。何度か行ったことあるけれど、むっちゃくちゃにうまいのだっ!そのうえ安いのだっ!近くの人は絶対に行かなければならないのだっ!
あっすんません、興奮して、せんでもええ宣伝を叫んでしまいました…。
最後は気を取り直して冷静にいきます。
生きる、ということは、自分のための辞典を自分自身で編んでいくという行為かもしれない。いろいろなことについて、自分なりの経験を積み重ねて考え、これはこういうことなのだと折り合いをつけながら『定義』をどんどん増やしていくという意味で。なんでもいいからテーマを決めて『私家版辞典』を編むというのはおもしろそうだ。なんとなくブーム到来の予感がする。
って、ハイブロウに着地したつもりやけど、あかんかなぁ。
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定義といえばこれですね、と思ったのに、絶版…
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これなんかも、エンタメ私辞典でしょうか。
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こっちの方が面白いかも。