何をおいてもこれは食べなくてはなるまい。本書の解説を頼まれた私は、スケジュール表を睨んだ。これでもいちおう、食べ物についての本を数多く書いてきた人間である。林宏樹さんの素晴らしい筆によって、いかにマグロの「養殖」には詳しくなっても、味を知らずにいては、魚に申し訳ない。さて、どこで大阪まで食べに行けるかと考えたのだ。
近大の完全養殖マグロを食べさせるレストラン『近畿大学水産研究所』が、大阪駅に隣接した、新たな商業施設『グランフロント』にあることには、当初から注目していた。私がニヤリとしたのは『ナレッジキャピタル』という一角に店を構えたことにである。『グランフロント』にはもちろん食堂街もある。しかし、同じフロアながらそれとは一線を画して、学術や文化を発信する産学共同のアンテナショップが並ぶ場所に出店したところに、私は頷いたのだ。それこそが、本書をも貫く「実学の精神」の発露だと思ったので。
この原稿の締め切りの数日前に大阪に立ち寄る機会があった。特にお願いして席を確保してもらったのは、今や予約もなかなかとれない店になっているからである。はたして出かけて見るとロープが張られた場所に、大勢の人々が並んでいて「ズル」をした私は恐縮した。すんまへん、マグロたちについてちゃんと書くためなんです。かんにんな。
店は明るく、活気がある。アンテナショップというのは、素人っぽくても許されると勘違いしているところが往々にしてあるのだが、そういう甘えがない、完璧にプロの仕事っぷりだ。オペレーションにはサントリーの関連企業がかかわっているらしいが、うどん店の経営者でもある私から見ても、とてもではないが「大学がやっている店」とは思えない。これもさきほど触れたような「実学」の誇りがそうさせているのだろう。
メニューがボロボロだった。貶しているのではない。ああ、ここに来る客は「ある意志」を持っているんだな、とわかるのである。漫然と食べに来ているのではなく、「近大が完全養殖に成功したマグロ、あるいは他の魚たちを食べたろやん」だ。もっと言えば背後の「物語」を味わいに来ているのであって、だからメニューをかこんで、仲間うちでああでもない、こうでもないと語り合っているのに違いない。本当に楽しい美食とは、ここから始まるものだと私は信じている。
「本マグロと選抜鮮魚のお造り盛り」と「本マグロ中身のガーリック醤油焼き」を頼んだ。「近大マグロかまの天然塩焼き」は早い時刻なのにもう品切れだ。それでもお造り盛りの中にマグロがあるのは幸運だと言うべきであって、本書の補足章にあるように、当初の赤身、中トロ、大トロを味わい比べられるマグロ3種盛りは商品の供給が追いつかずにメニューからとりあえず消されている。
この日、盛り込まれていたのは中トロだった。醤油につけるとぱあっと脂が皿の中に広がる。一方で醤油をはじく身の表面を見て、私はもう味を確信していた。付着の分布が均一なのだ。脂が表面で自己主張することなく、赤身の細胞の間に宿っている感触がある。口にして、それは確信にかわった。繻子のような舌触り。いかなる夾雑物もない。きわめて均質な、完成度の高い味だ。赤身の持つあのヘモグロビンの香りと、大トロの猥雑といっていい脂肪ののたくり具合の双方を兼ね備えている。たまたまだが、中トロに当たったというのは、近大マグロというものを識る上で幸運であったかも知れない。
これは「工業製品だ」と私は直感した。ここでも貶しているのではない。驚嘆しているのだ。たとえば私のやっているうどん屋では「工業製品ではないうどん」を出すことを目標にしている。「出回っているほとんどのうどん」が「工業製品」であるゆえに、その無機質さや均一さを排除したいからだ。しかし魚というものは逆である。もともと個体によってきわめて差がある。漁師たちに叱られるのを覚悟で言えば、漁業は農業でいえば粗放な段階にまだ止まっていると言っていい。「そこにあるものをとってくる」のであって、「自分たちの手のうちで作り上げる」レベルに至っている農業とは、発達段階において大きな差がある。つまりは食べ手にとっては「当たり外れ」があるということだ。そう考えると養殖とは、漁業の農業化といってもいい。日本国が養殖大国であるのは、農耕民族なのと深い関係があるのではないか。
だがその養殖ですら、コメづくりなどの芸術といっていい農業の精緻な栽培技術に比べると、まだまだ遅れたものだった。やはり、基本の考え方部分で「漁民的」なのだろう。近大水産研究所は、その漁民的DNAからいったん離れ、実際の漁師たちの知恵や経験を借りながらも、あたらしい哲学を作り上げた。それが「羊飼い」ならぬ「魚飼い」という考え方だと、本書を読んで私は痛感した。
林宏樹さんによる、地を這うような取材から養殖技術そのものを教えてもらうことももちろん楽しい。しかし近大がなしとげた、この知と産業の「パラダイムシフト」を読み解くことが、再生をかけている日本国のあらゆる産業に活かされるのではないだろうか。
「工業製品」の品質を維持していくのは、クオリティコントロールである。日本国の経済をこれまでひっぱって来た「ものづくり」の巨人たちの企業は、ほぼすべてがワンマン経営だった。面白いことに、創業者のワンマンの時代が終わったあたりから、業界全体の凋落が始まった。クオリティコントールとはつまりは統制である。統制がもっとも機能するのは、独裁者のもとであるとは、残念ながら歴史が証明する通りだ。近大マグロの成功は、近畿大学という「私学」が主導したことにあると、私は本書で痛感した。その思いを、解説を書くことを報せるのとあわせて、旧知の国会議員、世耕弘成さんにメールをした。この第2次安倍内閣の内閣官房副長官は、本書にしばしば登場する近大の初代総長・世耕弘一さんの孫であり、2代目総長・政隆さんの甥にあたる。ちなみに3代目は、父の弘昭さんだ。返事にはこうあった。
〈マグロの完全養殖は近大が民主的に運営されていたら絶対に成し得ない事業でした。同族による経営の良い面が出たプロジェクトだと思います。〉
自由「民主」党の政府首脳のこんなコメントを紹介するとあとで叱られるかも知れないが、私が本書から学んだ本質のひとつを、さすがに身内だけあって鋭く突いている。
「不可能を可能にするのが研究だろう」という初代総長・世耕弘一さんの言葉は、本書を貫く、ひとつの大きな柱である。この言葉に支えられて、熊井英水さんをはじめとする関係者は走り続け、30余年を経てついに完全養殖に成功する。
しかし、この言葉は日本国の「喪われた20年」にもっとも欠けていたことのように、私には思われてならない。「不可能を可能にする」ことのリスクを誰もがとらなくなったのだ。それはさきほど触れた、ワンマンの巨人たちの退場と軌を一にしていた。そんな時代の風の中で、熊井さんたちは営々と「不可能を可能にする」試みを続けてきた。それを支えたのは、時代の風を読む連中からみれば「古くさい」近大の「校風」だったことにほかならない。〈同族の経営による良い面〉とはそのことで、この考え方の復活も、日本の将来の指針のひとつになりうるだろう。
私たちはいま、成功の物語を希求している。その鮮やかな一例が文庫版として世に出ることは、まさに時代の要請と言っていい。グランフロントの店で近大マグロを食べる前には、ぜひ本書を読んでいただきたい。
何よりの前菜であり、調味料になると私は信じている。
親本の最終章は、熊井さんの誕生日が奇くしくも10月10日の「マグロの日」であることで結ばれている。私もひとつ気づいてしまった。信州の山峡に生まれた熊井さんなのに、名前の中に「水」を持っている。近畿大学水産研究所の「水」を。
(平成25年10月、コラムニスト)
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