「白紙(894年)に戻す遣唐使」と遣唐使廃止の年号をランドセルを背負って覚えていたあの頃は何だったのか。895年でも893年でも良い気がするが語呂が悪くなるか。確かに894年は意味と語呂がぴったりくる。893年だと「ヤクザ(893)もびびる遣唐使」か。意味分かりません。、「やくみ(893)つるも大好き遣唐使」ってのもある。もはや支離滅裂。895年に至っては、苦し紛れにも思いつかない。
吉備真備、空海、最澄、山上憶良、橘逸勢。遣唐使は現代でも知られる歴史上の人物が多いが、何故かはっきりと覚えているのが阿倍仲麻呂だ。日本での業績が特にないのに不思議だが業績がないだけに「遣唐使で唐に渡って帰って来られなかった人」という記憶が強烈に残っている。
とはいえ、本書と並行して読んだ 『遣唐使全航海』などの遣唐使の関連本によると、帰って来られなかったり、航海の途中で殺されたりした人は少なくないことがわかる。官位を持たない人間の記録はないから、少数精鋭の印象もあるが、十数回で総数は4000人近くもいたとの説もある。一発逆転を狙った有象無象の中でも、なぜ阿倍仲麻呂がこれほどまでに心を惹きつけるのか。そもそもどんな人生を送ったのか。本書はその謎に挑む。
確かに彼の人生は人を惹き付けるだけのロマンにあふれている。十代で海を渡り、科挙を突破、玄宗皇帝の寵愛を受け、出世する。交友関係も華やかで
王維や杜甫、李白と交流を深める。
本書では、当時の東アジアの外交史を辿ることで異国で大出世した背景をわかりやすく提示する。また、王維や杜甫が仲麻呂を詠んだ詩から宮廷での仲麻呂の実像を浮かび上がらせる。「杜甫、李白かよ、王維かよ」と歴史好きは興奮を隠せないはずである。
興奮を隠せないとか書きながら漢詩に全く素養のない私は正直、わからなかったりするのだが、たまにはこういう興味はあるがよくわからん分野に首を突っ込むのは本好きには欠かせない刺激である。
一方、華やかな宮廷生活と対照的に、渡航後、亡くなるまで約50年間、日本の地を再び踏むことはなかったことが前述のように仲麻呂を歴史に埋もれさせなかったわけであるが、その悲劇性を強調し、仲麻呂=遣唐使と決定的に印象付けたのが、有名な歌である。
「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」。
これはさすがに歌の素養のない私でも知っている。多くの人がランドセル背負ってるときに習ったはずである。帰国が許され、唐を発つ前に詠んだ望郷の思いと、そして結局は座礁して帰れなかったその後の展開がこの歌を輝かせるのだが、何ともできすぎた歌ではある。実際、出来すぎなのである。そもそも彼の残した歌はこれ一首。本人が詠んだのではない説が有力で、紀貫之の創作説など多数あるという。この歌が誰が詠んだかにこだわるとそれだけで本一冊書けてしまう話であり、昔から「あーだ、こーだ」言われているほどだ。
本書でも言及しているが主題ではない。むしろ、著者の真意は、「野暮なことをいっちゃいけない」の一語に尽きるであろう。仲麻呂が詠んでなかろうと詠んでいようと、仲麻呂が異国の地でなにを思ったか。唐を発つ前になにを感じたか。そこに思いをめぐらすことこそが大事であると我々に投げかける。その手がかりとなる資料や明快な解説を提示し、我々を長い歴史のたびにいざなう。歴史を知る醍醐味が本書では味わえる。
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