背伸びやジャンプを繰り返すことで、身長を伸ばすことができると信じている人は少なくない。実際バレーボールやバスケットボールのスター選手たちは見上げるほど高いし、ウェイトリフティングやマラソンなどのメダリストは小柄な人が多い。しかし、背伸びやジャンプの身長効果は、医学的にはまだ証明されていないらしい。オリンピックレベルの選手たちの身長の差は、それぞれのスポーツに最適な体型をもつアスリートが選びぬかれた結果であろう。
それでもなお、背伸びを勧めるスポーツインストラクターは多いはずだ。背伸びとは縦方向のストレッチであり、そのストレッチの効果は絶大だ。柔軟性の改善、筋肉の緊張緩和、血流改善、神経機能の向上などが期待されるからだ。筋肉や骨格に対する直接効果だけでなく、生活習慣病の改善や精神衛生にも効果があるのだ。
このストレッチにはコツがある。筋肉をゆっくり引き伸ばし、伸びたら20秒ほど静止するのだ。筋肉には筋紡錘というセンサーが埋め込まれており、急激に引き伸ばされると、そのセンサーが反応し、脊髄から筋肉を収縮させる信号が出てしまう。これを防ぐためにはゆっくり筋肉を伸ばす必要がある。そして時間をかけて筋肉に伸びた状態を記憶させるのだ。
前置きが長くなってしまった。本書『経済思想の巨人たち』は脳内にある知的筋肉のストレッチをうながす最適の書だ。経済思想というトレーニングツールをつかって思考の柔軟性を劇的に改善し、36人もの巨人たちの素顔を知ることで、本格的なトレーニングへ進むことができる。すなわち知的背伸びを促してくれる好著なのだ。本書は経済学の初学者はもちろん、広く高校生から、理系大学生、多忙なビジネスマンまで、すべての知的セルフトレーニングをこころざす人たちに読んでもらいたい一冊だ。
経済学にまったく疎い人や中高生であってもマルクスやケインズの名前と、彼らの理論が後世になにをもたらしたかは知っているであろう。前者は共産主義国家群を生み出し、ソ連や中国に長期間の混乱と停滞を招いた張本人だ。後者は戦後長らく自民党政権が公共投資を正当化するための拠り所としてきた有効需要の神様である。大学で経済学史などを受講した人であれば、アダム・スミスの「見えざる手」やマルサスの『人口論』など、少なくとも試験前の一夜漬けで学んだはずだ。「見えざる手」は現代の市場原理主義、アメリカ型資本主義へとつながる大河の源流である。熱心なビジネス書の読者であれば、シュンペーターの「創造的破壊」やリバタリアンとしてのハイエクを知っているはずだ。創造的破壊の概念こそはイノベーションそのものであり、現代においてまったく輝きを失っていない。
しかし、おなじ経済思想家であっても管子、トマス・モア、石田梅岩、ゾンバルトがなにをどう主張したかについてはあまり知られていないはずだ。とはいえ管子の名前は知らずとも「衣食足りて礼節を知る」という言葉は誰でも知っているであろうし、石田梅岩の無制限な利潤の追求や金儲けは悪という思想はいまでも日本人の心の奥底にある。
本書ではほかにプラトン、福沢諭吉、北一輝などが経済思想家として取り上げられている。一般的に彼らを経済学者とは呼ぶことはない。それゆえに本書は経済学書ではない。経済学者列伝でもない。カネにかかわる人間行動や倫理についてユニークで面白い発想をもっていた、古今東西の36人をとりあげ、彼らの生き方と思想を紹介しているのだ。
たとえば福沢諭吉である。日本人であれば誰でも知っているように、福沢諭吉は個人の自立と自由を説いた啓蒙思想家にして教育者だ。著者は諭吉が「和魂洋才」ではなく「洋魂洋才」を教えることを生涯の仕事にしたと見ぬく。すなわち「個人の独立と自由」と「科学と技術」を重んじたというのだ。そのうえで諭吉の「一身独立して一国独立す」という言葉を引き合いに出し、個人の自立が国家独立の必要条件にほかならず、そのためには個人が賢くなること、すなわち教育が重要だという諭吉の思想にたどり着くというのだ。論理が明快でわかりやすい。
さらに「競争」という言葉が諭吉の造語だったということ、『学問のすゝめ』が300万部以上も売れたので著述業で生計を立てることができたこと、などの逸話を紹介しつつ、諭吉はアダム・スミスと同じ考え方を持っており、教育を提供することは国家だけが行うべき仕事ではないという考え方にたどり着いたとする。さらに国家の援助を受けることは民間の学校の自立と自由を損なう恐れがあるからで、それは今日の経済学者フリードマンの考え方と変わらないというのだ。
ここで読者はもういちどアダム・スミスについて知りたいと思うだろうし、フリードマンを勉強してみようという気になるかもしれない。それこそが著者の狙いの一つであろう。経済にかんする人間の思考は時代や国をこえて普遍性をもつこともあるし、同じ時代の同じ国にあっても正反対ともみえる思想が生まれることもある。絶対的な正解を求めることのできる自然科学とはまったくことなる経済思想の面白みを知ることができるのだ。
著者の竹内靖雄は筋金入りの自由主義者だと評されることが多いようだ。たしかに本書ではアダム・スミスはもちろん、海保青陵、ゾンバルト、ハイエク、フリードマン、ベッカーなど自由主義の守護神たちを好意的に紹介しているし、マルクスや安藤昌益などについてはきつい言葉で文章を結んでいる。
とはいえ本書には、自由主義こそが究極の経済思想であり、読者にそれを押し付けるというような試みはない。著者はどこか醒めているのだ。読書三昧の生活を送り、読んだ本を採点し、だいたいこのあたりが正解に近いだろうさ、という感覚なのだ。自由主義こそが日本がとるべき経済政策だ、と熱弁をふるうのではなく、どうせ自由主義以外の経済学では各国経済とも失敗するので、時間をかければ結果的にどの国も自由主義に収束するだろうよ、という経済思想の選好すら市場という試行錯誤に任せようではないかと言いたいようなのだ。本書の解説を引き受けた理由もそこにある。知れば知るほど醒めてしまうというのは読書人の悪癖だ。
インターネットが普及し、だれでも発言できる機会を得たことで、外交や財政、原発問題や社会保障制度など、あらゆる政治経済分野で唯一にして究極の正解を得ようという気風が強くなっているように思われる。しかし、実際にはそれは未来を予測することであり不可能なことなのだ。問題解決や制度設計ですら、市場という試行錯誤プロセスに乗せるべきなのかもしれない。そんなことを著者は主張したかったのかもしれない。ストレッチは熱血コーチよりもスポーツ理論を知り尽くしているトレーナーに指導されるべきだ。知的ストレッチのパートナーとして竹内靖雄はベストなトレーナーかもしれない。