沢木耕太郎31歳、藤圭子28歳。
男は新進気鋭のノンフィクションライター。女は昭和の歌姫と呼ばれながら引退を発表した演歌歌手。
1979年秋、東京紀尾井町のホテルニューオータニ40階にあるバー・バルゴーでふたりは語り始める。
「呑み物は、どうします?酒でいいですか?」
「うん」
「何にします?」
「ウォッカ、あるかな?」
「それはあるんじゃないかな。とりあえず、ここはホテルのバーなんですから」
「それなら、ウォッカ・トニックをもらおうかな、あたし」
「ウォッカ・トニックってウォッカにトニック・ウォーターを混ぜただけのもの?」
「そう、それにレモン」
「軽くて、おいしそうだね。ぼくもそれをもらおうかな。あっ、ウォッカ・トニックを二つお願いします。それと……つまみは、どうしようか」
「いらないな、あたしは」
「つまみはいりませんから、呑み物だけ、お願いします」
「面白いね」
「何が?」
「だって、ボーイさんに、とってもていねいに注文するんだもん」
「おかしい?」
「ていねいすぎるよ。変に威張る必要はないけど、ちょっとていねいすぎる」
『流星ひとつ』は34年前に実際に行われたインタビューを会話だけで構成したノンフィクションである。冒頭の会話を読んだだけで、ふたりは初対面か、会っても間もない関係が読み取れる。これから8杯のウォッカ・トニックを飲み、言葉を重ねていくのだ。
その少し前、藤圭子は電撃的に引退を発表した。沢木耕太郎は、後に彼の代表作となる『深夜特急』の旅から戻り、新しい形の「私ノンフィクション」を書こうとしていたときに「藤圭子引退」のニュースを見る。その数か月前、知人とともに偶然、藤圭子に出会い少し言葉を交わした折、彼女が「もうやめようと思うんだ」とぽつりとつぶやいたのを聞いていた。
「地」の文を加えず、インタビューだけで描き切る。その思いつきに沢木は興奮したという。
インタビュー嫌いを隠そうともしない藤圭子は、型通りの話題から入ろうとする沢木を鼻で笑うように、「馬鹿ばかしい」と切り捨てる。インタビューとはこういうものだ、と言い募る沢木に対して「関係ない」「知らない」「どうでもいい」をくりかえす。食い下がる沢木。そこで説明されるインタビュー嫌いのわけは、芸能マスコミが垂れ流した嘘に翻弄されたことを正直に語っている。沢木耕太郎だって、嘘を書くひとりかもしれないのに、ジャーナリズムなんか信じない、と言っているのに、藤圭子は誠実に答える。
え、私が思っていた藤圭子とぜんぜん違う。
17歳で『新宿の女』でデビューし、怨歌と呼ばれるドスの効いた声で、夜の世界に生きる女の情念を歌い上げた藤圭子は、こんなに聡明で自分の意見をはっきり持ち、引退の理由もこんなにきっぱり語っていたのか、と読み進むうちに好感度がどんどん上がっていく。
2杯、3杯と酒が進むうちに、警戒心がほどけていく。それは沢木のほうも一緒で、用意していた質問の答えを待つというより、自分の経験を語って感想を聞き始め、間に笑い声が混じっていく。子どもの頃の思い出からデビューの経緯、ヒット曲の裏話に歌手としての矜持が滲む。
藤圭子はデビューの時から伝説を纏った少女だった。両親は浪曲師で母は盲目。貧しかった彼女は母の手を引いて門付けしながら金を稼いだ。ピンチヒッターで出た札幌の歌謡ショーで見出され、東京に出てくるもしばらくは流しの日々だった。作詞家の石坂まさをがマネージャーとして面倒を見たデビュー作『新宿の女』が過酷なプロモーションの末にヒットし、続けて『女のブルース』、7か月後には代表作ともいえる『圭子の夢は夜ひらく』が大ヒットとなる。
4杯、5杯、6杯と、圭子が最初に言っていた、ひっくりかえってしまうという限界に近づいても話は終わらない。恋愛、結婚、離婚、交友関係、仕事の失敗、言い訳、愚痴、引退の理由。本当にこの人は頭のいい人だ。だから自分を偽りながら誤魔化しながら芸能界で生きてはいけなかったんだ。
このころになると、私も素面じゃ読めなくなる。ウォッカはないのでバーボン・ソーダ。ページを捲る手が止まらない。
7杯、8杯、沢木は強引にインタビューを続ける。もうどうでもいいじゃない、という藤圭子。大人の恋の始まりのような危ういやりとり。どこかの酒場のとなりのカップルの会話を盗み聞きしているような気持ちになる。
芸能界の非常識、理不尽さ、金の亡者たちのすさまじさは、外から見る普通の人が思うより何倍も何十倍もひどいことが日々行われていたのだろう。引退を決定的にしたある事件から、彼女は歌うのが苦痛になっていく。心と歌が一致しない。苦しんだ末の引退の決意。
ここまで読んできて、この決意に反対を言う者はいない。藤圭子の引退は必然だった。
インタビューが終り、原稿が出来上がり、あとは出版するだけになった。しかし沢木のある迷いが、このインタビューをお蔵入りにした。彼は手書きの原稿を製本所に頼んで一冊の本にしてもらい、アメリカに渡った藤圭子に送った。
沢木に語った通り、藤圭子はアメリカで語学の勉強を続け、その後、ニューヨークで宇多田照實氏と出会い、結婚して宇多田ヒカルが生まれた。
そう、この本は日の目を見ることがなかったはずなのだ。今年の8月に藤圭子が死んでしまうまでは。
あんなに芸能マスコミを嫌い、嘘や憶測で書かれることを嫌った藤圭子が、人生の最期で同じ目に合っている。生前の最後のテレビインタビューが流れ、それがどうも正気を疑うような内容で、亡くなった後も元夫や娘から、精神を病んでいたことが語られた。
人間30年も経てば、いろいろなことがあるだろう。しかし、34年前、藤圭子は聡明で活発で正直で、美しく楽しい女性だった。このインタビューを読めば、誰もがそう思う。夫も娘も知らない、ひとりのすばらしい女性の肖像が見事に切り取られている。
『流星ひとつ』の中では「女癖が悪い」などと、かなりひどい言われ方をされている石坂まさを。しかし、藤圭子のデビューのために奔走し、一介の作詞家でありながら、彼女の才能に惚れ込んでマネージャーまで勤め、大ヒットを飛ばした立役者であることは間違いない。1999年に刊行された本書は、藤圭子の死によって、復刊された。
母と自分、藤圭子と母親、そして藤圭子と宇多田ヒカル。母との“きずな”を横軸に、自分の人生と藤圭子の歌手生命を縦軸に綴られた本書は、多分、藤圭子が知らない真実も含まれている。
ただ、一人の少女の才能にのめり込み、作詞家としても大成した男の姿なのに、やるせなくてたまらない。石坂まさをも既に鬼籍に入った。藤圭子が逝ったのは「石坂まさをを偲ぶ会」の前日の朝だったという。
今年の春、まるで占うように藤圭子のデビューアルバムがCDで復刻されていた。
もうひとりの昭和の歌姫。私のレビューはこちら