偶に芳醇な赤ワインを飲み、フランス料理をいただくと、何故か、食後に無性にチーズが食べたくなるときがある。でも、これは何も人間に限った話ではない。9,000年前に、西アジアで生まれたチーズは、神々も大好きだったのだ。何しろ、シュメールの豊饒の女神イナンナは、チーズに魅かれて夫に羊飼いのドゥムジを選んだくらいなのだから。
本書は、人間の文明史と交差するチーズ9,000年の歴史を、分かりやすく語った物語である。チーズの起源から説き起こし、メソポタミアからアナトリアを経由してエーゲ海へ、エーゲ海からケルト人へ、そして、ギリシャ・ローマ世界からキリスト教の修道院を経てヨーロッパへと、チーズが夫々の時代や土地に合わせて、進化を遂げつつ拡がっていくプロセスを簡明に解説してくれる。
古代のチーズは、メソポタミアでは先ず、神殿に奉納されるものだった。また、ギリシャの神々はチーズの好みに、ことのほかうるさかったようだ。古代のチーズはローマで体系化されるが、それは、傑出した3人の農学者がいたからである(著書が残ったからである、と言い換えた方が正確かも知れないが)。カトーの農業論、ウァロの農業論、コルメラの農事論がそれである(因みに、このカトーは、「カルタゴ減ぶべし」で有名な大カトーである)。ここまでが前半であるが、現代のチーズの大半が既に登場していることに驚かされる。
本書の後半は、「荘園と修道院」(第6章)と題する中世から始まり、山岳チーズやロックフォールなど、チーズが多様化し成熟化するプロセスが描かれる。「乳搾り女」など、興味深いエピソードも華を添える。そして、市場原理を梃子にして、最終的にはオランダがチーズ王国に昇りつめる。その後、新大陸(アメリカ)にヨーロッパのチーズの製法が持ち込まれる。新大陸での奴隷貿易とチーズ製造との関係(ラム酒を加えた三角貿易)には、目からウロコが落ちた。
最後は、極めて今日的な問題が取り上げられる。EUが強力に推進しているPDO(原産地名称保護)規制と、それに抵抗するアメリカ等、新世界との対立問題である。一言で言えば、チーズの名称はどこの誰のものか、ということだ(これは何もチーズに限った話ではない。実は、ほとんどの伝統的食品に通底するテーマなのだ)。著者も、明確な答えを用意している訳ではない。結局は、みんなが考えるしかないのだろう。最終的には、コストを最低に抑えるアメリカ主導の近代的な生産モデルを、伝統モデルに置き換えるコストをだれが負担するのか、という問題に行き着くことになるのだから。ともあれ、チーズ好きには、とても嬉しい本に違いない。
出口 治明
ライフネット生命保険 代表取締役会長。詳しくはこちら。
*なお、出口会長の書評には古典や小説なども含まれる場合があります。稀代の読書家がお読みになってる本を知るだけでも価値があると判断しました。