ルバング島の任務で話していないことがたくさんある
2008年(平成20年)5月、都内の病院のカフェテリアでのインタビューで、小野田寛郎が筆者にもらした一言である。しかし、その先は同伴者に遮られて聞くことが出来なかったという。
本書は日本陸軍において「諜報、謀略、宣伝、防諜」のノウハウを教えていた「陸軍中野学校」の卒業生たちの証言集である。存在したのは日中戦争期から太平洋終結までのわずか7年余り。当時は一般には知らざれておらず、隣にあった憲兵学校の生徒ですらそこがどんな施設か知らなかったという。彼らは戦時中であっても、外出時に背広姿を崩さなかった。
戦後68年を経て、生存者は少なくなるばかりである。ほとんどは90歳をこえ、病を抱えたり認知症によって何もわからなくなっていたりする。
しかしごくわずかではあるが、両親や家族にも隠していた任務や真実を、最後に明かしたいという人の声にこたえ、著者の斎藤充功は丁寧な聞き取り調査を行った。中野学校の取材を長く続けてきた著者は、関係者の信頼を勝ち得ていた。その結果が「証言一」に登場する第1期生の牧沢義夫である。
2009年、牧沢は94歳。記憶はしっかりしており論理的な思考回路を持つことに驚きつつ、インタビューは行われた。第1期生は18名。徴兵中に甲種幹部候補生の試験に合格後、中野学校の前身である『後方勤務要員養成所』に入所し、卒業後は参謀本部で北米、南米の事情研究に携わる。海外任地は外交官としてコロンビアとエクアドルに赴任、スペイン語を習得し、任務は重要戦略物資の日本への託送であった。戦略物資とはプラチナ。飛行機制作のための必需品である。大量のプラチナを日本へ託送するのは、まさにスパイ大作戦。本当にこういうことが行われていたのか。
太平洋戦争開戦後は帰国し、台湾軍参謀部情報班長の任に就く。終戦後は部下が起こしたアメリカ軍の捕虜虐待事件の責任を一身にかぶり重労働30年の判決を受け、昭和21年10月から29年まで巣鴨プリズンに収監されていた。
あの時代、日本人は「天皇や国家に忠誠を尽くす」ということが至誠とさえれていましたが、中野の教育で学生に求められたものは国体イデオロギーよりも「個としての資質を求められました。資質とは「生き延びる諜報員は優秀である」ということなのです。
そういう教育された男たちの証言は16。たとえ同期であっても、どこにいて何をやっているかは当然知らない。もう先が長くない命の最後に語る真実は凄惨だ。
捕虜の米軍パイロットの皆殺し、満州の関東軍でのソ連への偵察要員、無条件降伏を選んだ昭和天皇を廃し、新天皇を擁立しようとした『8・15クーデター事件』の関与、ヘロインを使った南方工作、登戸研究所と共同しての破壊工作兵器の試作、中国経済を混乱させるための贋札づくり、など専門性の高い危険な任務は、まさに事実は小説より奇である。
国の礎になるつもりで勇躍、赴任しても、その先では特別な作業を行わなかった者もいる。生と死は紙一重という言葉を、身を持って知る人たちでもある。
卒業生と在校生の総数は2131名。戦死者289名が明らかになっているが、卒業生の中には戸籍を抹消して偽名を使い、特殊任務に就いていた者も多く、生死の確認が取れない者も少なくない。
冒頭の小野田寛郎に戻る。1974年、終戦後29年経って、フィリピンのルバング島から帰還したニュースは当時大きく報道された。当時、私は高校生で、戦争なんて遥か彼方の歴史の一部であったのに、突然、リアルなものとして感じて父に当時のことを尋ねたところ、彼自身が特攻隊の生き残りだと知って驚愕したのだった。その事実があまりに衝撃的で、小野田少尉のことも忘れることが出来ない。
小野田を始めとした中野学校二俣分校一期生39人はフィリピン各地に配属された。終戦後、ルバング島に4名の日本兵が残留していることを知る。地元警察に1名が保護されたのち、1954年、1972年、と残りの2名がレインジャー部隊や警察官に射殺された。
その2年後、小野田は救出隊に参加していた中野学校の元上官谷口義美少佐から任務解除の命令を口頭で伝達され、彼の戦闘は終わる。
果たして小野田は何を守り何の戦いをしていたのか。著者は同期生の手記や、当時の小野田の扱い、アメリカのジャーナリストの調査などからひとつの推論を引き出す。それは、いつの日か明らかにされる日が来るのだろうか。
本書の巻末には「陸軍中野学校破壊殺傷教程」が付属されている。これは昭和18年、参謀本部の諜報活動担当が、戦闘地域、非戦闘地区で行うスパイ活動の具体的な施策を、中野学校に命じて研究させ完成した草案なのだそうだ。テロ行為への反面教師とも成り得る、非常に緻密なものである。
陸軍中野学校は、もうあと少しで歴史の中に埋もれてしまう。諜報のエリートたちが自ら語った真実は、長く残され検証されるべきだと確信する。
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小野田寛郎の自伝。もう一度読み返してみたい。