「ニューヨーカー」誌の3月18日号に、厨房の文化史といえそうな記事がありました。古代ギリシャの饗宴やローマの宴会から、現代アメリカの主婦たちの料理観を変えたという、いわゆる「フープロでガー」革命(フードプロセッサでblitz everything!)に至るまで、厨房の技術と文化は、なんと長い道のりを歩んできたのだろう……と、感慨にふけりながら引き込まれるように読んでおりました。
たとえば、西洋の食卓につきもののナイフとフォーク。もともとはこれ、護身用のダガーが使われていたんだそうですね。ほら、あの、十字型をした、グサっと相手に突き刺せば致命傷を負わせることもできる、アレです。晩餐に招かれたゲストは、自分のダガーを持参して、肉料理などが回ってくるとそれで切り取り、ときにはうっかり自分の指も切っちゃって血を流したりしながら、肉片を口に放り込んでいたそうです。
女性も自分用のダガーを布袋などに入れ、ベルトから下げていたらしいです。やがて、ゲストは自分のダガーをホストの家のドアのところにかけて中に入り、食事に必要なフラットウェア(鋭い刃物、突き刺すフォーク、必要なスプーンなど)はお皿と共にあらかじめセットされたテーブルにつくようになります。
今日の、「これ見よがしになまくらな」食卓ナイフに至る道のりの転換点は、1637年のフランスで起こりました。リシュリュー枢機卿に招かれた客の一人が、ダガーを爪楊枝変わりに使って歯をせせったんだそうです。それを見て気分を害したリシュリューが、自邸での食事には、なまくらの食事用ナイフを用意するように、と命じたというのです。
社交マナーの権威でもあったリシュリュー枢機卿のスタイルは、すぐさま上流階級に広がったとか。リシュリューって、そういう人だったんですね……。
といった話を楽しく読んでいたところ、自然人類学者(physical anthropologist)チャールズ・ローリング・ブレースなる人物が登場したあたりから、話が急にサイエンスになってきたのです。
ブレースさんは、人間の噛み合わせに関心があります。みなさんご存知のように、現代人の噛み合わせは、上の前歯がほんの少しだけ前に出ているのが普通とされています(これを被蓋咬合と言うらしい)。それに対して、ヒト以外の霊長類はみんな、ちょうどギロチンのように上下の前歯がガシャンとぶつかる噛み合わせになっています(ここでは「ギロチン咬合」と呼んでおきましょう)。
人類の被蓋咬合がどれぐらいの時間をかけて、どのように進化してきたかについては、諸説あるらしいのですが、ブレースさん自身は、農耕生活が始まって人類が穀類を食するようになってから、漸進的かつ選択的に進化してきたのだろう、と考えていたそうです。
ところが、発掘された人骨などの噛み合わせを調査し、おそらくは世界最大級とみられる噛み合わせデータベースを構築する過程で、ブレースさんは考えを変えます。どうやら被蓋咬合は、せいぜいのところ、過去250年間に人類が獲得した形質であるらしい、と。
とくに顕著なのは、イギリスで十九世紀になってフラットウェアが中流階級に広がると、中流の人びとのあいだにも急激に被蓋咬合が広がり、第一次世界大戦でステンレススチールが開発され、庶民向けにステンレスのディナーテーブルに出始めると、ギロチン咬合は事実上消滅したということです。
さらにブレースさんの仮説を裏付けるデータが、上海の自然史博物館で発見されました。宋代(960年から1279年)の貴人たちのあいだに、被蓋咬合が広がっていたことが判明したというのです。そうだとすると、中国ではヨーロッパよりもざっと800年ほど早く、被蓋咬合が生じていたことになります。ブレースさんが調べてみると、どうやらその背景には、いわゆる中華包丁(四角くてうすっぺらなアレ)と箸の普及があったらしいとのこと。
箸(と、焼き物でつくられたスプーン、いわゆるレンゲですね)だけで食事ができてしまうという文化は、宋代にはじまるらしいのです。箸を使った食事というと、器用な箸さばきばかりが注目されがちですが、あらためて考えてみれば、箸だけで食事ができるような、高度な調理技術(肉類を薄くスライスできるとか、野菜を自在にカッティングできるとか、人間フードプロセッサと呼びたくなるような技術)が、箸文化を支えているともいえるわけですね。
この記事を読むうちに、わたしはどうにもこうにも噛み合わせが気になって気になって、洗面所の鏡の前に立って、自分でギロチン咬合を作ってみて口元の印象がどんなふうに変わるのかをチェックしてみたり、ウェブでいろいろな肖像画の画像を探しては、口元をじっと見つめてみたり……
だって、あのモナリザ(十六世紀初頭)のモデルさんも、おそらくはギロチン咬合だったわけでしょう?
みなさんも、美術展などで肖像画をごらんになるときには、ぜひ、モデルの口元にも注目なさってみてください。そこから、厨房の文化史という、意外な世界が広がっていくかもしれません。
ところで、「ニューヨーカー」誌の記事は、ビー・ウィルソンという英国のフード・ライターさんの著作に対する書評として読むこともできます。(書評として読まなくても面白いです!)ウィルソンさんは、父親は著名な劇作家、母親はオックスフォード大学のシェイクスピア学者、妹はペンシルベニア大学の古典学者、夫はケンブリッジ大学の政治科学者という学者一家の一員ですが、彼女自身もケンブリッジ大学で歴史学の博士号を取得しており(専門はフランスの空想的社会主義)、読む者を引きつける文才と学識でファンも多いようです。
で、な、なんと、驚くべきことに、ウィルソンの『フォークを考える』、すでに書評集まで刊行されているらしいんです! 熱い議論が繰り広げられているもようですが、いったい何が、みんなをそこまで熱くさせているんでしょう……?
ああ~、読みたいけれど、読んでる時間がない! (でも読みたい……)