修復家という職業がある。58億円で落札されたゴッホの「ひまわり」は、今も鮮明な色彩を放っており、モネの「睡蓮の池」も、完成当時の風合いを留めている。それは全て修復家のおかげなのだ。
これらゴッホやモネの絵は、著者の修復家である岩井希久子さんの仕事によるものだ。本書では世界でも有数の腕を持つ岩井さんが、見事な医術により名画を再生し、真摯に仕事に向き合う姿を開示している。一方、ワーキングマザーとして働く彼女が、家族と仕事の間で揺れ動きながらも、常に前に進む姿に胸をうたれる。
岩井さんには娘が二人いる。「子供が産めるのは女性だけ」という思いと同時に、「絶対に仕事に穴をあけない」という信念から、本人は妊娠中でも仕事を中断しようとしない。絵画は修復の方法を誤ると本来の美しさを損ない、寿命を早めてしまうことになる。酷ければ名画を破いてしまう場合もある緊張感ある仕事だ。岩井さんは、過去に間違えて修復されたせいで劣化し、無残な姿になったピカソの作品に大手術を施した経験がある。
私の場合、いつも仕事と家庭は反比例しているようでした
仕事が波に乗っているときは、家庭に問題があったりする。外で忙しければ、家事がどうしても行き届かなくなってしまう。母として、どうしても家のことに時間がとれないときは、まわりの人に多く助けられながら修復を続けた。
彼女の言葉はいつも柔和で、気品に溢れるが、絶対に諦めない態度からは、受けた仕事は必ずやり遂げる芯の強さを感じる。今でこそ普通かもしれないが、現代のように女性が働く環境が整っていない中、岩井さん達のような先人には計り知れない苦悩があったと察する。女性が社会や家族から理解を得ながら働けるのも、岩井さんのような女性達のおかげだろう。
修復に出される絵画のほとんどは、過去に何度も補修の手が加えられており、その中でも岩井さんの修復は「治療」と呼ばれる。その処方は、生前の画家が絵を描いたときの精神と空気を読み取り、それまでの誤った修復方法によるダメージを測りながら再生させる方法。その仕事には、絵の中にあるものをきちんと受けとって、かみ砕いてからもとに戻してあげる、母のような優しさがある。
岩井さんは修復にあたって「作家の意図をくみ取る」ことをモットーとしている。過去の史実・文献の記録を読み込み、そこから得られる小さな手がかりを集める。作品の事を一番に考えているのだ、という愛情と、強い責任感を担い仕事と家族に向き合っている。どんなに手間がかかろうとも、作家によりそって向き合うと、必ず作品は答えてくれて見違えるように再生するそうだ。
修復の基本はクリーニングだ。一番効果的なのは、意外かもしれないが唾液を使って汚れを取り去る方法だそうだ。もちろんその他薬品も用途別に使用するが、唾液に含まれる酵素と粘り気は、絵画の汚れを取るのに最適らしい。丁寧に淵にたまった汚れを取り除き、使用する綿棒も市販のものではなく自分で巻く。本書の見開きに修復道具が掲載されているが、用途に応じてピンセットやブレードが綺麗に整えられている様は、さながら医療用具を連想させる。
ヨーロッパでは絵の1点1点にカルテのようなコンディションレポートがある。フェルメールの絵画などは、約50年に一度、修復が繰り返される。かたや日本の絵画修復文化は大幅に遅れている。通常、海外の美術館は修復部門が付属されており、修復家が必ずいるのに対して、日本では修復の職人がいる美術館はごく少数だ。こうした修復家に対して、地位と待遇が十分でない現状の改善を岩井さんは強く訴える。確かに、ある美術館で展示されている絵を鑑賞したとき、戦後まもない作家なのか彩度が低く、暗い気持ちになってしまった経験がある。彼女のような修復家が増えれば、どんなにか美術館の展示が明るくなるだろうか。
実際の修復作業は、掃除など単純作業の繰り返しだ。去っていく人も多い現場らしい。彼女のように確固たる信念がなければ続かないだろう。ひょっとすると、こういった精神力が試されるは現場は、女性のほうが強いのかもしれない。
そのため本書はただ単純に絵画修復の技法書でない。絵の病気を治療する医師としても、仕事を持つ女性としても、読んでいて勇気を貰える一冊だ。