インターネットを検索していたら、驚くべき事実を知ってしまった。と言っても、たいした話ではないのだが、昨年末あたりから、本書の著者で将棋棋士の加藤一二三九段がテレビによく出ているらしいのである。将棋番組かと思えば、マツコデラックスやビートたけしと共演しているというから腰を抜かした。70歳を超えたけど大丈夫かと思いながらも、youtubeで「加藤一二三 マツコ」と検索したら「加藤さん、結局、自分の自慢話ですね」とマツコとナインティナインの矢部浩之に突っ込まれている加藤一二三が出てくるではないか。正座しても、ネクタイが畳に着くくらい長く、対局中に前後ゆらゆら、駒をパシパシ空打ち。あああ、民放で「ひふみん」の雄志を見られるとは。といってもネットだが。テレビ全く見ないので知らなかったが。
そんな「おちゃめなおじいさん」ぶり全開の著者の新刊タイトルは『羽生善治論』。副題は「天才とは何か」。親交がある天才棋士の羽生を中心に、中原誠、谷川浩司、森内俊之、渡辺明、故人である大山康晴や米長邦雄まで自らの対局経験から彼ら天才棋士に通ずるものは何かを探る。そして、天才棋士の中でも希代の名棋士である羽生は何が彼らとは違うのか。羽生を羽生たらしめるものは何かを論じている。
まるで、レビューのようなことを書いてしまったが、もちろん、そんな無難な内容で終わるわけはない。著者が「ひふみん」なのだから。対局中に滝の音がうるさいと止めてしまう「ひふみん」である。対局中、ヒーターを相手に向けて「熱い」と怒らせてしまう「ひふみん」である。対局中、リモコンで温度を上げようと思って、部屋の明かりを消してしまう「ひふみん」である。普通に羽生善治を論じるわけがない。ひふみんファンはお見通しだろうが、本書は羽生善治を論じるとみせ、加藤一二三論なのである。
書き出しからしてひふみん節全開である。「はじめに」の一文目が「かつて私は、『神武以来の天才』と呼ばれた」である。確かに、14歳でプロ棋士になり、18歳で順位戦の最高峰A級にのぼりつめた。天才であることは間違いないが『羽生善治論』なのに加藤一二三論の様相をいきなり呈している。第一章になるとさすがの「ひふみん」も本の趣旨を思い出したのかまともな書き出しである。「まずは、羽生善治という棋士は果たして『天才』と呼ぶことができるのか、ということについて考えていきたいと思う」から始まる。
「そう!一般読者が望んでいたのはこの展開だ!」と思えたのは一瞬。その2行後は「ご承知のこととは思うが、何を隠そう、私もかつて『天才』と呼ばれたことがある」
さっき読んだよ!と突っ込みたくなるのは必至だが、これこそが「ひふみん」である。最初の16ページでこれでは先が思いやられる展開であるが、実際、この後も羽生の話をしていても、森内の話をしていても「私の場合は」とひたすら道がそれる。時には戻ってこない。「ひふみん」はまだまだ健在である。
アマゾンのレビューでは「タイトルほど羽生善治を論じていない」や「老人が書いた自慢話本」と低評価もあるが、評価はさておき、コメント自体はその通りである。そもそも、この本は、ひふみんファンのためのひふみん節全開の本だ。羽生について知りたければ、羽生善治『決断力』を読むべきである。
とはいえ、この楽しさを一部の「ひふみん」ファンだけで享受するのはもったいない気がするのは気のせいだろうか。是非、動く「ひふみん」をネットかテレビで見て興味を持ったら、本書を手に取ってほしい。ひふみんワールドから抜け出せなくなるのは必至である。
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羽生さんといえばこれ