危険な学校―わが子を学校で死なせないために (2011/03) 畑村 洋太郎 |
※ この書評は時事通信社の依頼で書かれた文章に、現在の状況を加筆してあります。
3月11日の東日本大震災の被害は被災者の数、被害総額ともにかつてない膨大なものとなった。あれから2ヶ月以上経って、ようやく検証がされ始め、対策が練られ始めているが、何もかも失ったところからどうやって回復していけるのか、まだ先が見えない。
その上、未だ先の見えない原発事故は、実はぎりぎりの状態だったことを、ここにきて国民は知らされた。果たして、今、国が取っている対策は正しいのだろうか。
このたび、畑村洋太郎東大名誉教授が福島第1原発危機の原因解明のための第三者機関「事故調査・検証委員会」の委員長に指名された。畑村教授は「失敗学」つまり、何が間違っていたかを突き止める専門家として知られる。
失敗学のすすめ (講談社文庫) (2005/04/15) 畑村 洋太郎 |
しかし教授は、現在では「失敗学」から一歩進んだ形の「危険学」を提唱している。重大事故を防ぐためには失敗を受け入れているだけでは不十分で、周りにある具体的な危険を察知し、効果的な対処法を考え、再発防止に役立てなければならないと考えた。それが危険学だ。
畑村教授の新刊『危険な学校』はその「想定外」で起こった学校での事故を調査し、本来安全でなければならない場所で、子供たちが命を落としてしまった原因を突き止めていく記録である。
本書は「学校」という決められた場所での事故を取り上げているが、実は「学校」を「社会」に変えれば、ほとんどの事例は身の回りにあることばかりである。「はじめに」に書かれている「事故につながる危険」への考え方は、誰もが肝に銘じなければならないことだ。たとえばこうだ。
守るべき規則を作り、それをみんなでひたすら守るという形で行うのが従来の安全対策です。「これをやれば安全」として、決まり切ったことをやり続けることで安全が確保できると信じられてきました。(中略)この方法では、想定からはずれたところで発祥している新たな危険に対抗することはできません。決められた安全対策をひたすら愚直に行っても、ある段階に来ると必ず飽和状態になるのです。
大地震にあってしまった後だからこそ、この言葉の意味が分かる。原発問題も、安全への過信と自然に対する傲慢な気持ちが今の状態を作り上げたのかもしれない。
本書で取り上げた事例は、屋上の天窓からの墜落死、始業間際に門扉に挟まれた女子高校生、六本木ヒルズの回転ドアの事故、プールでの水死、子供が加害者になる自転車事故など、多くの人たちの記憶に残っていることばかりである。
年間七十人もの子供が、学校内で命を落としているという。墜落死や設備による事故は、大人が子供の遊び方や目の高さに気を配り、きちんとメンテナンスをしていれば防げるものが多い。教師は教育のプロではあるが、設備管理のプロではない、という当たり前のことに気づかされた。
危険を、ただ取り除けばいいということはない。子供たちに、危険なこととはどういうことなのか学ばせなければ意味がないと著者は力説する。海外で危険な目に合う日本人は、確かに安全に慣れすぎているからだ。
本書は震災前に書かれたものだが、各所に災害に備えた心構えが記されている。特に、三陸沖地震における津波被害への警鐘は、まるで予言したかのようである。
想定外の危険に対抗するのは、安全の側からものを見るのではなく、絶対起こしてはいけない重大事故の効果的な防止法を導きだすのが必要、という言葉を、原発事故が起きる前に読んでおきたかった。