私たちの意思は自分たちの気がつかないところで、周りの環境に大きく影響されている。例えば、本書でも幾度か登場する、選挙の場面ではどうだろうか。
投票所がどこにあるか、そんな些細なことにも大いに影響されている。アリゾナ州での学校補助金の増額への賛成票は、投票所が学校の場合、そうでない場合よりも有意に多かった。これは先行する刺激(この場合は学校)に判断や選択が影響されてしまう「プライミング効果」と呼ばれるものだ。
政治に疎くテレビ好きの有権者は、政治にくわしくテレビを見ない有権者の三倍も、「顔の印象に基づく能力」に影響されやすい。がっしりした顎と自信あふれる微笑の組み合わせが、できる男の顔で、能力がある印象をもたらす。だからと言って、政治家として活躍できる証拠は何処にもない。
投票用紙への記入にも、小さな工夫がある。難しい漢字の候補者はひらがなで立候補する1つの要因に、誰もが習熟したひらがなを記入させることで、見慣れない漢字を書くという、無意識で実行できない面倒な作業を低減させている。
本書の内容とは直接関係ないが、北朝鮮の選挙では、賛成票は無記入で、反対の場合のみ記入する。(候補者が1人しかいないため、信任投票の形になっている)これは同じ情報であっても、提示の仕方次第でちがう感情をかき立て、意思決定が変わる「フレーミング効果」を変則的に利用している。
と言いたいところだが、北朝鮮は選挙の事情が異なる。名目上は秘密投票だが、記入すると反対がバレるため、誰も記入できない。筆記用具なしの選挙会場もあるようだ。(参考)
本題に話を戻そう。
質問形式が意思表示に大きな影響を与えた事例として臓器提供への同意率がある。質問形式の違いによるフレーミング効果により、オーストリアには100%に近く、ドイツでは12%という差が生まれた。同意率が高い国では、提供したくない人がチェックマークを入れなければならず、低い国では提供したい人がチェックマークを入れる。それだけの違いである。多くの人が指して深い考えもなく選択しているという協力な証拠といえる。
このように、私たちは日々、数えきれないほどの意思決定の中で、ありとあらゆるもの影響されている。連想を駆使し、無意識のうちになされる、努力の必要のない直感的なファストな思考(システム1)と、規則に支配されて熟慮と努力を要するスローな思考(システム2)の間で多様な相互作用が起こる。通常は二つの思考は滞りなく機能しているが、システム2は怠け者であり、気まぐれなシステム1のエラーの兆候を察知できないケースがある。それは上記で紹介した選挙の事例である。
著者ダニエル・カーネマンは行動経済学の祖の1人で、これまで学問の領域を越え、数多くの研究者に影響を与える論文や専門書を残している。2002年には、「心理学研究の洞察、特に不確実性下の人間の判断と意思決定に関する研究を、経済学に統合したこと」を実績にノーベル経済学賞を受賞している。そして、本書がはじめての一般向けの書籍に当たる。構想から執筆まで、10年近くかかったと言われている。
駆け足で、残りの内容を紹介する。システムを1とシステム2という架空のキャラクターの組み合わせの次に登場するのは、経済理論の世界に住む合理的なエコンと合理的経済主体モデルでうまく記述されないヒューマンという二つの人種である。
最後は、現実を生きる「経験する自己」と記録を取り選択する「記憶する自己」で締めくくられる。カーネマンが最近の研究で、フォーカスを充てている幸福と人生の満足度の研究もここに含まれる。その中身は本に詳しいが、Tedでの講演も素晴らしいので、ご覧頂きたい。
本書は、村上浩の好物である上下巻セット、序論・結論 + 五部三十八章の大作だ。おまけに論文2つの付録つき。丁寧で気さくな文体と、読み手の気持ちに寄り添った、章ごとに適切に割り振られた文量が心地よい。どんな読み手に対しても、素晴らしい読書体験となるよう設計されている。さらに一章読み終えるごとに、自分の偏見を振り返る深い気づきがあり、じっくり思考したくなり、そこから新たな学びが生まれる。
行動経済学の類書を読み漁った方にとっても本書は外せない一冊だ。1つの文脈を通じて、カーネマンの理論だけでなく、あらゆる研究者の研究や調査内容を一覧できる。
そして内容もさることながら、一章・一論文あたり約100円のお得感、2012年ナンバー1の一冊だ。
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