月に一度は京都へいくようになって5年になる。到着は午後6時すぎで、京都駅から花街へ直行する気楽な夜遊びが目当てだ。寺社仏閣には目もくれない。とはいえ、ここ数年の京都ブームを体感することもある。お茶屋さんに上がるときにたまたま舞妓さんなどと一緒になろうものなら、周囲の観光客からどよめきがあがり、フラッシュが焚かれるのだ。無粋な輩だと憤りながらも、おもわずVサインを出してしまいそうだ。気分は御旦那様なのだ。
京都の花街は東京よりも安上がりである。しかも、夫婦連れで遊ぶことができる。京都はハレ、東京はケとわり切れば、日ごろの節制でなんとかなる。問題は一見さんお断りの仕組みの中に入ることが難しいことであろう。こればかりは京都人の友人を持つ以外に方法はないのかもしれない。
『都と京』は京都と東京という二つの都会の違いを、妙な文体で紹介していく。ですます調を基調にしながら体言止めもでてくるし、エッセイなのだが、括弧書きでは改行することもある。不思議な感じがするのだが、これにやられた。一気に読もうとすると、調子をはずされるし、ひねった論理もあって、じっくりと読まされた。プロに対して失礼なのだが、流行の「へたうま」漫画に通じるものを感じた。
本書のなかで著者は京都の商店街の個人商店で売られている「利尻産」昆布に京風を感じ、京都の場合は集積した品物を「私色に染めて」から売り出すと断ずる。東京は「私の上を通り過ぎていった品物達」を、泰然とそして茫然と見守る感じ、だそうだ。なるほど合点がいく。
『小説の一行目』は昭和10年から平成18年までの芥川賞と直木賞受賞作の一行目を切り出しただけの本である。これがそうだと知らなければ、まさに「へたうま」だと勘違いしてしまいそうな文もある。丸谷才一は「小さな花をつけた二本の草。」と体言止めで『年の残り』を書き出した。石川淳の『普賢』の書き出しはなんと250字弱にもなる長文だ。しかし、この一行ですら作家たちは呻吟し、熟考を重ねて書いたにちがいない。人の文体にケチをつけることは止めることにした。
『ニッポン、ほんとに格差社会?』の著者はNHKの「週刊こどもニュース」のお父さん役だったジャーナリストだ。無人島に流されて、毎週30分間だけテレビを見せてあげると言われたら、間違いなくこの番組を選ぶであろう。複雑な政治経済ニュースでも小学生の語彙で完全に説明してくれるだけではなく、時事テーマの選択も公平なのだ。この公平さを期待して本書を買った。
ところで、本書によれば、日本でも格差社会が広がっているかという設問に対する答えは△。日本はもともと意外にも格差社会だった、と結論づけている。格差の指標の一つである「ジニ係数」なるもので各国を比較すると、日本はOECDの平均値に近く、北欧などから比べると格差社会といえるらしい。
日本の財政赤字は多いほうか、という設問に対する答えは×。多いほう、どころではなく、多すぎて日本倒産ということになりかねないからだと結論づけている。自分も会社経営者の端くれなのだが、消費税増税と企業減税の組み合わせには断固反対する。アメリカのような不公平きわまる国になってほしくないからだ。治安コストがかかりすぎる可能性がある。へたに企業減税して、花街に社用族がもどってこられると五月蝿いからでもある。
花街で浮かれているだけではまずい。『作家が死ぬと時代が変わる』を買ってみた。日本を代表する大編集者が語り下ろすという不思議な本だ。しかも、恐ろしく面白い。これが「私の履歴書」に連載されたら日経新聞の部数が伸びたであろう。
書評などおこがましいので遠慮しておくが、本のつくりがじつに良い。文字が大きくて、じっくり読むには最適だ。人物写真の選択も的確で、表紙の写真も泣かせる。言論人が活字の中だけで活躍できた時代への郷愁が募ってくる。書籍に対する愛着がわいてくる。三島由紀夫や司馬遼太郎など、スターとしての作家の横顔を見ることで、文芸に興味を持つ人々も出てこよう。本書は知的人生を送りたい若者のテキストにもなる。
おなじくテキストになりうる本を発見した。『落語「通」入門』である。現役の上方落語家が書いた落語史で、綱吉時代から戦前までに活躍した落語家と落語文化を取り上げている。さすがは、桂米朝一門の落語家だ。歴史を振り返りながら、新境地を切り開く気骨がある。
桂米朝は全30巻、桂枝雀は全40巻のDVDをだしている。きちんとした映像を残しているのも桂米朝一門だけなのだ。東京の落語家はテレビにでるのが忙しいらしく、立川談志でも全5巻のDVDが精一杯だ。あきらかに日本の伝統大衆文化は西高東低なのだ。渋谷円山町、赤坂などの花街から三味線の音色が絶えはじめた。「そうだ 京都、行こう」。