著者が本書を書きはじめたときには、殺人事件と殺人者の実像を細かく区分し、定量的に分析したうえで、罰則の厳罰化や捜査法など、進行中の社会的な議論に思考材料を提供したいと考えたと思われる。しかし、裁判員制度に関する書籍が売れ始めたため、無理やり「社会的大転換の裁判員制度」という終章を付け加えたように見える。本の作られ方の憶測はともかくとしても、本書の価値は全270ページ中、153ページを占める第1章にある。
本書によれば、日本における統計上の殺人は年間1400件ほどだが、この中の死亡者がでてない殺人未遂と殺人予備を除き、殺人には含まれない強盗致死をカウントすると実質的な殺人は700件程度だという。
ところで、アメリカの強姦事件は20万件で日本の100倍、強盗も50万件で日本の100倍だ。しかし、殺人だけは5.6倍であり、これだけを見ると日本は他の犯罪に比べて異様に殺人比率が高いことになってしまう。しかし、著者は日本の殺人には無理心中が含まれるし、半分近くは親族による犯行だというのだ。
「1977年に行われた故意犯による死亡被害者全員に対する精密な調査」によれば被害者1527人中、子殺しは34.9%であり、それを含む親族によるものは57.2%にもなるという。逆からみて心中ではありえない事件は316人しかいなかったと本書はいうのだ。
本書は冒頭10ページだけでこれだけの情報量を一気に提供する。それ以降は男女関係、キレる若者、放蕩者、ケンカ、銃殺人、保険金殺人、バラバラ殺人、精神異常者などの類型や要因ごとにデータを提示し、精密に論理を進めていく。古いデータも使われるが、論理的な補正は適切で明示的だ。
もうすこし本書から抜き出してみよう。配偶者殺人において大きな要因は、離婚か別居が可能かどうかだという。少なくとも別居すれば殺されることも殺すこともないというのだ。つまり別居できる経済力があれば殺されなくてもすむということになる。所得と犯罪の関係性を考えるうえで、じつに示唆に富んだ論である。
ところが、第2章以降は不思議な論理が散見されるのだ。たとえば、刑務官は国民に知られることもなく献身的に努力をしているから、皇室の宮様から褒賞を出すべきだという。また、犯罪は日本において何よりもケガレであり、ケガレた世界を取り仕切るのは政治家と(刑務官を含む)公務員を中心とした特別な人々であり、それゆえに裁判員制度により一般市民がケガレた世界に関わることで、社会の大転換になるというように論理が展開されてくるのだ。読者はいきなり身分制度問題に引きづりこまれることになる。
戦争について触れて、戦争は法律上は正しい行為であり、第2次世界大戦だけでも2000万人が殺され、この「正しい殺し」はほとんど欧米先進諸国によってなされた、という。もちろん著者は戦争が正しいとは言っていない。皮肉を交えて「正しい」と言っているだけだ。
しかし事実だけでも、第2次世界大戦前後で最も多く死亡したのはロシア人であり1200万人-2000万人というのが定説だ。第2位は中国で、1000万人は死亡したと考えられている。この当時の2大農奴国だけで第2次世界大戦での死亡者数の半数を占めていることになる。この2国の死者のほとんどは日独軍および自国民同士によるものだ。この2国においては大戦とは別に、スターリンによる粛清と文化大革命だけでもさらに3500万人は殺されたと考えられるから、20世紀において欧米先進諸国が「正しい殺し屋」だというには無理があるのだ。
コンゴ内戦470万人、朝鮮戦争400万人、ポルポト虐殺170万人など、遠因および背後に列強諸国はあるかもしれないが、内乱での死亡者も1000万人を下回ることはない。少なくと第2次世界大戦だけを抜き出して、殺人の延長として論じるべきではなかろう。しかし、法社会学者の本分をもって書かれた第1章が秀逸であるがゆえに、本書をお勧めするものである。