大正十四年、民衆の日常品の美に注目した三十六才の柳宗悦は、陶芸家の河井寛次郎らと共に「民藝」という新語を生み出した。宗悦らは日本中から陶磁器、木工、金工、染織、絵画、彫刻などの民藝品を収集、昭和十一年には駒場に日本民藝館を開設した。本書はそのコレクションの一部を紹介したものだ。
もちろん、この「民藝」とは観光地のみやげ物店で売られている「民芸品」ではない。本書でも豊富に紹介されている古伊万里であり、李朝白磁である。柳はこれまで生活雑器として朽ちるにませていた無銘の雑器の再評価運動を指揮したのだ。
本来骨董といえば、まずは茶の湯の道具である。ところが、柳宗悦はこの茶の湯の創始者たちを軽んじていた。「利休と私」というエッセイのなかで柳は「遠州の如きは歯牙にかけるほどのものでさえないと思われてならぬ。」と非常に手厳しい。また、利休に対しても「利休は利休として認めてもよいが、利休程度の仕事に自分の仕事を止めるわけにはいかぬ。」ときわめて威勢がよい。
このエッセイは柳が六十一才のときのものだから、痴呆のゆえではなかろう。この文章を書く三年前には昭和天皇と皇后が日本民藝館を訪れている。前年には自らが見出した棟方志功展も大成功し、全能感が漲っていたのではなかろうか。
じつは、これと同じような人物をわれわれは見てきたのではあるまいか。充分な教育を受け、能力や才能にも恵まれ、権威や既存勢力に歯向かうことで、新しい分野を切り開き、大成功する。そしてその成功の果ての全能感ゆえに愚かな大衆を敵にまわし自滅する。村上世彰やホリエモンなどの改革者そのものなのだ。
柳宗悦はテレビという大衆メディアがない時代の人だ。それゆえに自滅はしなかった。そもそも当時の大衆はテレビなどで最新の情報に接し得なかったからこそ、柳たちは格安で民藝品を朝市などで買い集めることができたのだ。柳たちは買い取った民藝品に箱書きなどで価値を付加し、銀座の店舗で転売もしていた。本書はその残滓であるコレクションのカタログである。柳の嫌いな権威や権力によって取捨選択されなかった雑多な品々のリストである。
ところで、ベンチャービジネスとは権威や権力に反抗し、他人が無視しているようなものに己の人生を賭け、価値を付加し、人をして追従させ、差益をとることである。その意味で宗悦はじつに立派なアートベンチャービジネスの旗手だったのだと思うのだ。