7月26日にプロ棋士歴代2位タイとなる通算1308勝を記録した加藤一二三九段の著作。「加藤一二三九段」と書いても将棋に一切興味がない人には何段か、わかりにくいかもしれないが九段である。「かとう・ひふみ・くだん」と区切る。本書は、「神武以来の天才」とかつて呼ばれた加藤氏がこれまで対戦してきた名人たちとの対決を振り返りながら、自らの将棋観を語る内容になっている。
実力制名人制度が施行された1935年以降に誕生した名人は加藤氏を除くと11人。全員と対局経験がある加藤氏が各人のエピソードを書くことで、近代将棋を支えてきた名人たちの実像と戦いの舞台裏をのぞける。特に20―30代の時に自らの前に立ちはだかった大山康晴氏やタイトル争いを繰り広げた中原誠氏、加藤氏が大好きらしい羽生善治氏などとの盤外のエピソードは面白い。
加藤氏と聞くと、「最近、自宅マンション周辺で猫に餌付けして付近の住民と裁判沙汰になった人でしょ」と眉をひそめる人もいるかもしれない。確かにその通りなのだが、単なる猫好きおじさんではないのだ。略歴を簡単にまとめると以下のようになる。
1940年生まれ。14歳7ヶ月で四段昇格(プロデビュー)、18歳で順位戦最高峰のA級に昇格。20歳で名人戦に挑戦。いずれも2012年時点でも破られていない最年少記録。1950年代から2000年代までA級に在籍記録を唯一持つ棋士。名人、十段、王将、王位、棋王などのタイトルを獲得。通算対局数、敗戦数は史上最多。愛称は「ひふみん」。
凄すぎる実績なのだが、将棋サークルでの存在感の大きさは棋力そのものというより、実力と奇行すれすれの行動のギャップに求められるのは間違いない。本書の副題が「奇人・変人・超人」で著者の加藤氏の意図としては対決した棋士のことを指しているらしいが、将棋を少しでも知っている人は「それはあなただろ」と突っ込んでしまう。加藤氏の変人ぶりを示す膨大な「加藤一二三伝説」がネット上などにも書き込まれているが、本書を読む限り、ほぼ事実のようだ。本書や過去の著作で本人が認めている話を中心に一部抽まとめてみた。ちなみに、通常こうした行為は盤外戦として、つまり相手への「ゆさぶり」として行うが、加藤九段は「意図に反して盤外戦と相手にとられた」と悲しんでいる。つまり、本人は普通にふるまっているだけなのだ。
・記録係に何回も「(持ち時間は)あと何分?」と聞く。聞いた十秒後にも「あと何分?」。1分将棋の秒読み中に「あと何分?」と聞き、テレビの30秒将 棋でも「あと何分?」。本人曰くリズムをとるためらしい。
・ただ、残り時間が紙に書いて提示されている対局中にも「あと何分?」と聞いて対戦相手があまりのうるささに激怒。
・寒いので電気ストーブを対局室に持ち込んで相手も寒いだろうと思い、等分に熱が届く位置に置いたら、対局者に「顔が熱いからやめてください」と怒 られる。
・電気ストーブで盤外戦を仕掛けたとの話が広まり、次戦の対局者に「私も使わせて貰う」とストーブを用意される。
・対局中に空ぜきを連発したり、相手の後ろに回り込んで盤を見たりする。ネクタイは畳に届くくらい長い。相手は気になって仕方がない。
・盤は部屋の中央に置かないと気が済まない。記録係が据えた位置でも直す。相手が嫌がったらくじ引きで決める。
・対局中の食事は昼も夜も常に鰻重。違う物を頼むと将棋会館に衝撃が走る。
・エアコンの温度設定22℃は譲れない。対局者と「暑い」、「寒い」を繰り返して互いにリモコンをいじりつづけることも。
・タイトル戦で「音がうるさい」と旅館の滝を止めさせたことがある 。止めようと思ったら天然の滝でとめられなかったこともある
加藤氏はこれらを全力で戦う上で、絶対に譲れないと主張するがあくまでも自分のこだわりだと語る。逆にこうした盤外戦を積極的に仕掛けたのが歴代最多勝の記録を持ち、通算18期名人を手にした大山氏だと加藤は指摘する。一生懸命に戦って結果を待つのが勝負哲学の加藤に対して、大山氏は相手の心理状態を汲み取り、力を削ぐために「10のうち3くらいは盤以外のことを考えながら戦っていたのではないか」と見る。例えば大山氏は対局中に相手が中座したときに座布団のへこみ具合から心理状態を観察していたという。例えば、前の方がへこんでいたら、「前のめりになって必死に考えている」=「悩んでいる」などと見て、対局を進めた。
自分が不利な状況でも巧妙だ。タイトル戦の多くは一局二日制だが、大山氏は形勢が不利と見るや、時間に余裕があっても中断して明日にしようと不自然に持ちかけることが何度もあったという。適当な理由を挙げては風向きを少しでも変えようと努めるわけだ。大山氏は晩年も勝利への執念は変わらなかったようだ。中原誠が持つ王位のタイトル戦では二日目の朝、対局前に盤の向きを勝手に90度変えたため、中原氏を激怒させたという。結局、この勝負は中原が勝ったが、年老いても勝負にこだわる大山の執念をあらわすエピソードだろう。
本書で大山氏と並び記述が多いのが羽生善治だ。帯にも羽生氏がコメントを寄せている。羽生氏の加藤評も本書では頻出する。「加藤先生は30年以上、全く同じ形の将棋しか指されない」と褒めているのかけなしているのかよくわからない発言も見られるが、お互いに敬意を示す間柄であることがわかる。
加藤は超一流の棋士であることは間違いないが、本人としては悩んでいた時期があったようだ。「神武以来の天才」と呼ばれ、若干20歳で名人に挑戦しながらもタイトルを初めて獲得したのは29歳の時。名人を獲ったのは40歳を越えてからだ。現在のようにタイトル数も多くない時代でもあったが、大山という巨大な壁が立ちはだかりつづけた。悩み、カトリックの洗礼を受けたのも30歳前後の時である。本人曰く「他者を気にせず、地道にでも自分なりに一歩一歩歩んでいけば幸せになれるのでは、新たな道が開けるのでは」という思いがあったという。天才も人の子だったのである。そして、人に何と思われようが好きな将棋に一局一局全力投球してきた結果が、通算1308勝、そして07年に達成した前人未踏の通算1000敗(現在1084敗)という記録につながったのだ。当時、加藤氏はこう語っている。「全力投球でやってきた結果なので、1000敗も恥ずかしくはない。自分の努力と家族の支えがあったから、ここまで指してこられた」。加藤一二三を知らない人でも加藤一二三が気になって気になってしかたがなくなる一冊である。
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名エピソードが満載