「聖書? ホテルに置いてあるよね」それがほとんどの人の感想かもしれません。けれども――岩手のケセン地方に住むとある医師は、ひとりこつこつと「翻訳」をしてしまったのです、なんと、自分のふるさとの言葉に。その医師の名は、山浦玄嗣(はるつぐ)さん(1940年生まれ)。
と、その前にこれ、誰が書いているんでしょうね。自己紹介をしておきましょう。私は、HONZの新人、足立真穂と申します。詳細は省くとして、神楽坂のとある出版社で単行本を作る地味な日々を送っております。有名なロダンの彫刻作品と同じ名前を持つ季刊誌の編集部にも所属、3ヶ月に一度繁忙期を迎えるため、その時期になると目を血走らせております。
当然ながら、HONZ被害者の会の「金返せ! HONZ」血判状にも名前を連ねていたわけですが、東えりかさんと本について語り合う本仲間もどきだったことで、すでに私の人生には暗雲がたちこめていたようです。その上、昨年の年末でしょうか、『オオカミの護符』という編集担当した作品で、代表の成毛眞さんに出会ってしまったのが運のつき。いつのまにかこうやって必死こいて、聖書を翻訳した物好きな医師(失礼!)のことを書いているというわけです。
さて、無駄口は災いのもと、話を戻しましょう。
山浦さんは、岩手県大船渡市に住む、幼少時からの敬虔なカトリック教徒。昔から不思議に思っていたことがあったといいます。なぜ聖書の言葉って、普段使わないわかりにくい言葉ばかりなんだろう。山浦さんはなによりもふるさとを愛する人でもありました。そうだ、教会に来るあのおばあちゃんがわかるような言葉に言い直してみよう。だからこそ、「敵を愛しなさい」は、「敵だってもどごまでも大事にし続げろ」(原文には、わかりやすいルビや傍点が駆使されています)なのです。こつこつと始めた翻訳が完成したのは、ちょうど世紀が変わるかどうかの頃だったといいます。
奇跡は、同じ大船渡で、もうひとつ起こっていました。
親戚から引き継いだ印刷所の行く末を考えあぐねていた熊谷雅也さんです。インターネットの時代、印刷なんて儲からない。でも、それなら印刷する中身を作ってみよう。そうやって「イー・ピックス出版」を立ち上げたのです。
ふたりは同じ教会に通う顔見知りだったそうで、新しい名刺を差し出した熊谷さんに、山浦さんは「本になる原稿あるよ」とにやり。それがケセン語訳聖書の原稿でした。ことの顛末をつぶさにうかがう機会があったのですが、語るときの嬉しそうなことといったら! この辺りの土地柄なのか、威勢がいいというか豪快というか。「だって、グーテンベルクは、他でもない聖書を印刷したんだよ。それで世界を変えたんだよ」オレがやってなにがいけない? その通り。やってみなくちゃわからない。
さまざまな工夫をして、2002年11月、聖書の第一巻『マタイによる福音書』は完成します。多くの人の手を借り、メディアにも取り上げられて聖書は話題になり、全4巻累計1万4千部にも及んでいるとか。それでも、まだまだケセン人の冒険は続きます。最後にはなんとか伝手を辿ってローマ法王に謁見し、献呈するにまで至ったのでした。教会の仲間たちとヴァチカンで法王と並ぶ写真を拝見しましたが、なんとも痛快です。
ふたりの聖書をめぐる冒険は、ぜひ「ふるさとのイエス」(イー・ピックス出版)で読むことをお薦めします。山浦さんの本への入門編として、いちばん適しているかもしれません。続けて書かれた『走れ、イエス』『人の子、イエス』とあわせて3部作となっています。
そんな幸せな聖書でしたが、大変な艱難辛苦が待ち構えていました。2011年3月11日の津波は、沿岸部にあったイー・ピックスの、社屋も出版倉庫も流してしまいます。幸いなことに山浦さんも社員も全員無事でしたが、大船渡の被害が尋常なものでなかったことは皆さんもご存知の通り。高台の熊谷さんの自宅の敷地内にプレハブを建て事務所とするも、肝心の本がありません。そもそも、本なんてこの時期にだれが読むの? もうこんなの無駄じゃないの?
全4巻の聖書は、各巻函に入っていました。函はダメになりましたが、外すと中身は乾かせばなんとか読める。ですが、世界一厳しいと言われる日本の消費者に売ることのできるレベルではなく、廃棄を覚悟し、暗澹としたそうです。とりあえず、事務所の脇に積み上げたものの、覆うブルーシートが目にしみたとか。
ところが、世の中それほど捨てたものじゃないようなのです。
北海道、旭川から、「買うよ」と声がかかります。え? 濡れてますよ。乾いていても、曲がっていますよ。
「だからすごいんでしょ。あの津波を生き残ったすごい聖書でしょ」。
傷があるからこそ、価値がある。曲がったからこそ、手に優しい。そう評判が広がり、「お水潜(くぐ)りの聖書」として売れ始めたといいます。まさに「生まれ変わった」聖書(ですから「新刊」扱いで今回も書評しているわけです。ってやっぱり苦しいですか?)。ただし、売れてしまい、在庫は底をつきつつあるとか。というわけで、この創意工夫に満ちたCD付きの聖書をお薦めしたいのですが、先ほどの三部作をまずは読んでみてください。
その後で、手に入りやすいこちらの新書もオススメします。2011年末刊行の『イエスの言葉 ケセン語訳』(文春新書)。代表的な言葉を抽出して、それにまつわる聖書のエピソードをわかりやすく解説したものです。震災後にまとめられており、痛切な体験が行間にあふれます。
話のついでに別の大作もご紹介しておきましょう。三浦しをんさんの『舟を編む』で辞書編集部が注目を浴びる今日この頃ですが(私も楽しく拝読、モデルになる人物が5人くらいすぐに思い浮かびました)、超ど級辞書『ケセン語大辞典』(無明舎出版)を忘れてはなりません。上下巻で3000頁、定価3万4千円なり。で山浦さん、ケセン語の辞書をひとりで作っていらしたのでした。
通常の辞書は、全員のチームワークで動く大きな船ですが、『ケセン語大辞典』はヨットでひとり世界一周したようなものかもしれません。
だんだん何を勧めているのかわからなくなってきました。そろそろ打ち止めにします。ここまで御読みになった方は、私が本を薦めるよりも、山浦さんの奇跡を語りたかったのだなとお気づきでしょう。そうなのです。昨日までHONZ被害者の会主要メンバーでしたから、すぐ加害者になるような、ナカノ先生のようなことは私にはさすがに気がひけるわけです。『ケセン語大辞典』に至っては、品切れで買えないからこそ、ここでご紹介しました。エンゲル係数ならぬホンゲル係数がちまたで問題になっていると聞いておりますので、私自身はその辺のところ、優しくいきたいと思っています。どうぞ今後ともご贔屓に。
最後に、イー・ピックスのホームページで聖書の一部、CDのみ買えるようです。奇跡の聖書の朗読がたった1500円で聞けます。くれぐれも、お知らせまでに。あなたの懐の責任は持ちかねます。はい、これからも優しく参ります。
イー・ピックスのホームページはこちら。