約1年ぶりとなる佐々木 俊尚さんの新刊。事前に御本人から本書の執筆についてお話を聞かせていただく機会などもあり、非常に楽しみにしていた。新書で468ページはさすがに肩が凝ったのだが、歯を食いしばって一気読み。ただし歯を食いしばったのは、頁数の問題だけではなかったのだが・・・
これまでの佐々木さんの著書というのは、「今」もしくは「時代の先端」を的確に切り取りながら、進むべき方向を示唆するというものが多かったと思う。つまり「これからの時代がどう変わるかを知りたい!」というニーズに応えるためのものであった。そこには多分にマーケティング的な意味合いも含まれていたのだろう。
しかし本書には、その類の要素やソーシャルメディア周りの情報が少ししか登場しない。どちらかというと時代の潮流とは別に、自分自身の内部にある本当に書きたいものを書きましたという印象なのだ。
本書を読まれるにあたっては、佐々木さんの過去のTweetが纏められた以下のtogetterを副音声 代わりに読まれると、非常に面白いと思う。話の文脈がよくわかる上に、佐々木さん自身の苛立ちもダイレクトに伝わってくる。当事者→トゥジッシャー→トゥギャッター。うん、語呂もいい!
「弱者を勝手に代弁する人たち」について(2011/5/3)
佐々木俊尚さん、心ないフォロワーに怒る(2011/5/24)
「当事者性 VS ないものねだり論者」という対立軸(2011/8/29)
さて本題だが、本書の大きな問題意識は昨今の言論に蔓延る「マイノリティ憑依」というものにある。上記のリンク内にも登場するのだが、マイノリティ憑依とは、例えば被災地以外のエリアに住む人が「被災者の前でそれが言えますか」などと被災者の立場を勝手に代弁して、反論してくることを指している。
つまり当事者としてのインサイダーから一歩アウトサイダーに出ることによって、空を飛ぶような俯瞰的な視点ですべてを見下ろすことができるというものだ。本来どこのエリアにいようとも、そのエリアとしての当事者性があるはず。しかしエリアのアウトサイドに立ち位置を置くことによって、インサイドにいる限りは引き受けなければならなかった苦悩も取り払われ、神の視点を持つことができてしまうのだ。
日本人の本音と建前という二層構造は、誰もが知るところである。限られた範囲の中でしか語られることのない本音、パブリックではあるが誰にも非難されることのないように細心の注意を払う建前。この建前を構築する際の絶対的な安全弁として、マイノリティ憑依という技法が育まれてきたというのだ。
そして、このマイノリティ憑依というものの源泉を辿って、1960年代のメディアの論調まで遡り、戦後の思想史の在り方そのものを一刀両断してみせる。
1960年代半ばに勃興してきたベ平連のリーダー・小田 実による「加害者=被害者」論や、続く津村 喬の「内なる差別」論。そして本多 勝一が67年に『戦場の村』で書いた当事者主義。だが、その難しい領域に入り込んでいった結果、本多 勝一のような卓越したジャーナリストでも勢いをつけすぎてもんどりうって、マイノリティ憑依という壁の向こう側に転げ落ちてしまったのだという。
これら全体を構成する個々のエピソード自体も、本当に面白い。まるで、キュレーション仕立てで仮説を検証してみましたと言わんばかりだ。日頃目にする佐々木さんのTweetが、いかに氷山の一角であるか。水面下には無数のコンテンツがトポロジー構造で眠っていたのだ。これが視座というヤツか。
Twitterという言論の刹那をきっかけに、過去の言論のアーカイブへと深く入り込み、時空を超えて構造を描き出す。願わくば、こんな読書がしたいものだ。
また、本書にはソーシャルメディア周りの話はほとんど出てこないが、着眼の一端をソーシャルメディアが担っていたという点には注目したい。フォロワー数が15万を超える佐々木さんが、無償の評判経済の領域において、時には窮屈な思いもしながら着想を得て、出版という貨幣経済の領域では本当に書きたいものを書く。ここに評判経済における格差の一端が垣間見えているとも言えるだろう。
本書の内容は、誰もが容易に情報発信ができる総表現社会だからこそ、多くの人にとって示唆に富むものだと思う。ただ僕自身の場合、マイノリティ憑依という状況に陥る危険性というのは、あまり実感が湧かない。昨日は〇〇、今日は××とマイノリティのテーマを取り扱った本ばかり数多く読んでいるので、憑依するほど憶えていられないというのが本当のところだ。そういった意味で、マイノリティに関する本をたくさん読むというのは、マイノリティ憑依を防ぐための特効薬になるのかもしれない。これが必ずしも当事者意識を持つということとイコールではないとは思うのだが。
僕はむしろ、逆方向への憑依にも落とし穴があるのではないかと感じている。それは権威への憑依や空気への同調というものだ。例えば、本のレビューなどを書くにあたっては、著者への憑依というものが考えられる。レコメンドするうえでの自分の立ち位置を見失うと、それが著者の意見なのか、自分の意見なのか、曖昧になるということは起こりうるのだ。特に本書のように、直球ど真ん中でボールを放り込まれた時に、それは時折顔を出す。
これを広く捉えると、情報の送り手としてのマイノリティ憑依、情報の受け手としての権威への憑依、この両者のねじれが「当事者」不在の加速装置となっていたとも考えられる。いずれにしても重要なのは、自分自身の立ち位置を明確にしておかなければならないということだろう。
本書は全体の構造がフィクションのようでもあり、いつくもの伏線が一本の線に収斂されていく様は壮快だ。著者の肩書きが、「ITジャーナリスト」から「ジャーナリスト・作家」へと変わったのも頷ける。
ただ予めお断りしておくと、結論部分の後味は必ずしも良いものではない。何か自分が会社に入ったころの古傷を触られたようでもあり、自分の弱さをまざまざと見せつけられたような気分にもなる。これも「当事者」というテーマの難しさを表す象徴的な心象風景なのだと思う。いつもは「こうすべき」と明快に回答を示す佐々木さんが、「私はこうします」という言い方に留めているところからもその一端が伺える。
様々な文献や著者自身の経験に裏打ちされている部分も多く、時代の風雪に十分耐えうる息の長い一冊になると思う。しかし40年前の「当事者」と今の「当事者」という言葉の受け止め方が違うように、40年後にもきっと「当事者」という言葉の意味は変わっているのだろう。そして、それがどのように変わるのかは、私たち今の「当事者」が鍵を握っている ― そんな覚悟を迫る一冊だ。
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文明を停滞させ、滅亡へと向かわせる最大の要因として「スーパーミーム」という概念が提唱されている。「反対という名の思考停止」「個人への責任転嫁」「関係のこじつけ」「サイロ思考」「行きすぎた経済偏重」などが、その一例として挙げられているが、マイノリティ憑依などもその一種と言えるだろう。対抗策としては、「意識すること」「大胆なパダライムシフトを選択すること」「成長する機会を与えないこと」の3つであるという。高村 和久のレビューはこちら
杉山登志は、モービル石油「のんびり行こうよ、俺たちは」など数々のCMを手掛けた伝説のCM作家。そんな杉山がある日突然、謎の自殺を遂げる。残された遺書には、以下の文言が。
リッチでないのにリッチな世界などわかりません
ハッピーでないのにハッピーな世界などえがけません
「夢」がないのに「夢」をうることなどは・・・とても
嘘をついてもばれるものです。
これもあるいは、当事者意識が強かったがゆえなのか。複数の関係者の証言に基づいた回顧録。
かつて第二次世界大戦の終結を目前としたオランダで、大飢饉が起きた。この飢饉の悲劇が特徴的だったのは、飢饉によるマイナスの影響が、子孫の代にまで及んだということだ。1945年の飢饉の時に母親の胎内で経験した子供達が18歳になり軍隊に入隊した1960年代の半ば以降、肥満になる割合が高いこと、統合失調症になるリスクが高いことなどが分かってきたのだ。さらにこれは孫の代にまで影響を及ぼすのだという。これは社会的な環境が遺伝子に影響を与えたということを意味する。『「当事者」の時代』で描かれていることも、生物学とメディア論という違いこそあるが、社会的に影響を受けた遺伝という意味で、似たような構造を持つ問題なのではないかと思う。