「英語ができても、バカはバカ」とは、どこかで聞いたようなセリフだが、「数学ができても、バカはバカ」という命題は、はたして真なのか、偽なのか。英語と同じように、数学を道具や媒介物と位置づけるなら、この命題は真となる。それなら話は簡単だ。結論は「数学を勉強せずに、本を読め!」である。
しかし数学は、道具と位置づけるには、あまりにも上手く出来過ぎているようにも思える。全宇宙だけでなく、きわめて複雑な人間の営みさえも見事に記述することができるのだ。これなら、道具は道具でも「神の道具」ではないかと考える人間がいても不思議ではない。かのアインシュタインも、こう語っている。「数学は、経験とは無関係な思考の産物なのに、なぜ物理的実在の対象物にこれほどうまく適合するのか?」
この命題を、本書の言葉で置き換えると、「数学は発見か、発明か?」という問いかけになる。神が自らの想像によって創造した数学、それを人間は発見しているに過ぎないのか?それとも人間が、自らの想像によって数学という道具を発明したのか?本書は、この疑問を通して、数学の本質的な側面、特にわれわれの宇宙観と数学との関係を明らかにしようと試みている一冊である。
「数学は発見か、発明か?」この問いかけの歴史は、人類の歴史でもある。著者は、本書の大部分のページを割いて、古代、中世、近代から現代へとまたがる議論の変遷を、丹念に追っている。歴代の天才たちをも相対化せしめた、神の視点ともいうべき景色の一端を、まずは堪能していただきたい。
歴史的に古いのは、発見派の方だ。「数学は万能かつ永久不変で、その存在はわれわれ人間とは独立した客観的事実である」とする考え方は、「プラトン主義」とも呼ばれている。この主義に名を連ねるのは、ピタゴラス、プラトン、ゲーデルなど錚々たるメンバーたち。
その元祖は、ピタゴラスを始めとするピタゴラス学派である。ピタゴラス学派にとって数とは、天界から人間の道徳まで、万物に宿る生きた実体であり、普遍的な原理であったという。文字どおり、宇宙を数学に当てはめていた彼らにとって、神は数学者なのではなく、 数学が神だったのだ。
それに続いたのが、哲学者プラトン。 プラトンは、数学的真理とはイデアの世界に属する抽象的な対象物を指すのであり、物質世界とは別のものであると説いた。数学者は、さながら未開の地の探検家なのである。その後、ガリレオ、デカルト、ニュートンなどが、プラトン主義の考え方に若干の修正を加えながら、「数学は発見である」という考えを着実に結実させていく。
雲行きが怪しくなるのは、19世紀のころだ。数学は永久不変の真理を明らかにするものであるという、数千年以上前から信じられてきた考えが崩れ去る時が来たのだ。この思いがけない知的大混乱は、<非ユークリッド幾何学>と呼ばれる新しい幾何学の出現によって引き起こされたものである。
一般的に僕らが通常イメージする幾何学とは、ユークリッド幾何学と呼ばれるものだ。このユークリッド幾何学は5つの公理に基づいて成立しており、宇宙唯一の絶対的真理であると考えられていた。しかし公理とは、「自明である」という概念によって前提条件が仮定されているにすぎない。この公理のもつ曖昧さに、気づいた人間がいたのだ。
最初の発見者が、ロシアの数学者ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキー。彼が、何百年にもわたって自明とされてきた公理を入れ替えることによって、双曲幾何学という新しい種類の幾何学を構築したのである。この新しい幾何学の誕生により、数学は人間の心とは独立して存在する真理を発見するものではなく、人間の発明にすぎないのではないかという声が高まってきたのだ。この事実が当時の人々の宇宙観に大きな影響を与えたことは、想像に難くない。
さらにユークリッド幾何学に追い打ちをかける悲劇が起きる。ガウスの弟子のひとり、ベルンハルト・リーマンが、非ユークリッド幾何学は双曲幾何学だけではないことを証明すると、ユークリッド幾何学の地位はどん底にまで落ちた。この、まるで高貴な貴婦人が娼婦になるかのように数学が堕ちていく様は、本書の最大の見所の一つでもある。
つまり、直感的に理解出来ていたユークリッド幾何学による空間認識というものは、ワン・オブ・ゼムであるということが明らかになってしまったのだ。必然的に、物理的空間と数学との関連性は遠のいてしまうことになる。それならば、このプロセスを経て、「数学は発明」ということで決着がついたのだろうか?
意外なことに、数学が物理的実在から乖離するにつれ、一部の数学者はまったく逆の見解を抱くようになったという。彼らは数学を人間の発明と結論づけるどころか、「数学は独立した真理の世界であり、その存在は宇宙と同じくらい確かである」という、プラトン主義の本来の考え方に立ち戻ったのだ。そのうえで、直観的に理解できる物理的実在とのつながりを離れ、他の物理学と結びつける試みを始めていった。この「新プラトン主義者」とも呼ばれる考え方が、”応用”数学として進化していくことになる。
その後も議論は白熱する。数学は人間の心とはまったく独立して存在するのか?数学が抽象的な妖精の国に存在するものだとしたら、この不思議な世界と物理的実在との関係は?はたまた、数学は人間の脳の創作物に過ぎないのか?それならば、人間の発明した数学的真理と、宇宙や人間に関する事柄の関連性はどう説明するのか?
このように、「数学は発見か、発明か?」という命題には、政治哲学の議論のように様々な物の見方が混在している様子が見てとれる。はたしてサンデルのような人物が登場して、「いい質問だ。君の名前は?」「プ、プラトンです。」というようなやり取りが為されたかどうかは分からないが、ここに数学的命題のような厳密性や確実性が見られないことは間違いはない。
ここで興味深いのは、そもそも「数学は発明か、発見か?」 という命題が、数学の守備範囲ではなかったということである。この問題は、形而上学、物理学、認知科学といったさまざまな分野から得た手がかりを吟味することで、はじめて答えることができるものなのだ。
そして、この命題と複雑に絡み合いながら、本書のもう一つの大きなテーマとなっているのが、「数学の有効性」というものだ。
数学の有効性 – このテーマほど、僕の人生にまとわりついてきたものはない。手始めは就職活動の時、「数学を勉強したことが、広告会社のビジネスにどう役立ちますかね?」と面接官。「数学においてやってきたことは問題を解くということです。そこで培った思考力は、御社が掲げる課題解決という局面において役立つと思うんです。」と鼻をふくらませる僕。あぁ、あのころ僕は若かった。
会社に入ってからも、その質問は度々僕を襲った。何か気の利いたことを返せないものかと、「役に立つ」「数学」をテーマにした本を片っ端から買い漁ったものである。しかし、「巡回セールスマン問題」や「ギャンブラーの確率論」などのネタを持ち出されるたびに、むしろ役に立たないもののように思えてきた。そもそも、今どきセールスマンの巡回方法を、最短距離という観点だけで決めようなど、数学以前のところに問題がありそうだ。
結局、アプリケーションとしての数学を描こうとするから、用途が限定されるのだ。それでは数学の持つ偏在性や全能性は表現できない。本書のアプローチが特徴的なのは、アプリケーションとは逆の方向、つまりOSに近いレイヤーから「数学の有効性」に着目しているということなのだ。そこに僕は惹かれた。
この角度から有効性を検証した時のキーワードが「不条理」ということだ。この言葉は、言いかえれば「なぜ数学は自然界を説明するのに、これほどまでに効果的なのか?」ということでもある。まったく思いがけず、まったく合理性を欠いた形で有効性が発揮されるからこそ、数学にはサプライズという魅力があるのだ。
それにしても、本書にたびたび登場する「不条理な有効性」という言葉は、つくづく狡猾だ。不条理であるという言葉そのものに、「理屈では説明できない」という意味を含んでいるからである。理屈では説明できないけど有効なもの、うん、確かに不条理だ。
その特徴の一つには「受動的」であるということが挙げられる。数学の有効性の受動的な側面とは、もともと応用する意図もなく作られた抽象的な数学理論が、あとになって強力な物理学の予測モデルに変身するケースを指す。有名な例が、数学の結び目理論である。
数学者が結び目の研究に明け暮れていたのは、明確な目的があったわけではない。彼らにとって、結び目やその原理を理解するのは、ただの美しき挑戦だったのだ。しかし、その結び目理論に、ある日突然思いがけない応用が見つかる。それがDNAの分子構造の解析や、原子内部の世界と重力の統一を試みる<ひも理論>などである。結び目理論が、実際にこれらの科学において役立つまでのタイムラグは、実に約200年。これこそ、数学の有効性の受動的な側面を示す驚くべき実例なのである。
それならば「不条理な有効性」に今注目すべき意味とは、いかほどのものなのか?思い出されるのは、今回の東日本大震災のようなケースである。つまり、行きすぎた合理主義のなれの果てが、今回の震災で迎えた結末だったのではないかということだ。想定は、合理的推論によってなされる。その合理性の枠組みを超える事態が生じたからこそ、想定外の出来事は起こった。時代は今、「合理的ではないけれど有効なもの」に着目すべきなのである。
その意味において「日本人の9割に数学は必要」なのではないか、そんなことを感じさせてくれる一冊であった。
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「万物には数がある」と唱えたピタゴラスの謎につつまれた生涯と、その思想を辿った一冊。この本を読んで確信したのは、ピタゴラスは恐らく「数学の有効性」を不条理とは思っていなかっただろうということだ。その後、数々の賢人たちが、ピタゴラスが説いた真理を探求する。さまざまな地に散らばっていたピタゴラス派の生き残りを、訪ねてまわるプラトン。音律を通してピタゴラスと会話しようと試みたケプラー。知的な革命家として崇めたてまつり、大きな影響を受けた18世紀の秘密結社。はたしてこの世は、ピタゴラスの変奏曲にすぎないのか。
「数学は発見か、発明か?」この論争に近い出来事が、19世紀の集合論でも起きていた。「無限とは何か?」を巡り、フランス数学者たちがデカルト的合理的解釈を試みたのに対し、ロシアの数学者たちは神秘的で直観に基づいた解釈を試み、独自の進化を遂げたそうだ。ロシア正教会からは異端とされ、ソヴィエト政府からは反動的な宗教とみなされた「讃名派」と呼ばれる彼らは、その後、伝説的な数学者集団ルシタニアを結成する。本書は、そんな激動の歴史に翻弄されるロシア数学者たちの人間模様を描いた一冊。政治的抑圧、物資の欠乏、逮捕、自殺、同性愛まで何でもあり。ちなみにポアンカレ予想を解決したことで有名な数学者ペレルマンは、ルシタニアのメンバーが創設した学校で、数学を学んだそうである。
抽象的な数理空間と自然界とを繋ぎ合わせた実例が盛りだくさんなのが、この一冊。自然界に潜むさまざまな生命の形を、幾何学と進化論から挟み撃ちにしている。ちなみにHONZの朝会で本書が紹介された時、東 えりか が表紙の写真を見て即座に「カリフラワーだ」と答えたが、ずばりご名答。ロマネスコという名前らしい。ちなみに僕は、カリフラワーとブロッコリーの区別がつきません。