本をなくすのは読書につきものだと思っている。ということで、今月書評に書こうと思っていた本『想像するちから』は闇の彼方へ消えてしまったのである。
3月は想像力をテーマに多くの本を読み漁った。”想像力”について、まとめている最中である。その理由は文末に書こう。しかし、この記事は本のキュレーター勉強会向け記事であるので、想像力をテーマに読んだ本の中でも特段に印象に残った『地図の想像力』について書評をまとめた。
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世界地図を見て、世界全体を考えている時と、Google Mapを見て、目的地にたどり着こうと地図を見ているときの想像する力は異なっていると思わないだろうか?前者は見たこともない世界全体図をまるで知っているかのように上空から想像し、世界地図を世界として認識している。後者は、地図に簡易に表現された図と身の丈の高さから見る現実の世界を確かめながら、図と現実をつなぐ想像力が働いている。
また、地図は、私たちが生きる世界の空間的な形状を目に見える形で示す表現だが、そのような表現が成立すること自体がすでに、見えない全域を空間的な像として可視化する人間の想像力が介在している。宇宙から地球を見れば、国境線など見ることはできないのだ。その国境線をすべて一人の人間で確かめるほど人生は長くない。国境線は想像力の産物であるのだ。『想像の共同体』のベネディクト・アンダーソンが明らかにしたナショナリズムの議論とも関連している。
地図は「全体を見ることのできない社会」に「像」としてのリアリティを与え、空間としてのイメージや概念を与える。
このように、想像力にはいくつかの種類がある。学問的観点から分類することもできるのであろうが、想像力を阻害したくないので、ここでは割愛する。
その中でも、本書に書かれている”地図の想像力”は3つのフェーズに分けることができる。1つは、正確な測量が行う技術前の時代の地図。
かつて人々は、世界をかならずしも今日の地図に描かれたようなものとして考えてはいなかった。
次は、正確な測量ができ、正確さが重要となっている時代の地図。そして、地図的な枠組みを越境してゆく動き、グローバリゼーションの時代である。
また、3つ以外に、社会が地図を模倣しようしている時代、社会が地図的になるフェーズも存在している。具体的には、アフリカの直線的な国境があげられる。植民地化の過程で、与り知らぬところで形成された国境である。これは、民族や言語や信仰関係なしに分割された。しかし、植民地の境界線という支配の枠組みが、ナショナル・アイデンティティの枠組みとして、捉えなおされたのである。支配の対象として決められた領域を、自らの国土として、主体的に捉えなおし、後追い的に国となっていったのである。
地図は世界を表す記号であり、それが正確かどうかは問題でないのだ。
以下、想像力というキーワードで先月、目を通した本である。
P.S.何故、想像力に固執しているかといえば、会社のコンセプトが”more imaginative life”であるから。ようやく3期目の航海に乗り出したところ。哲学をゆるゆると育んでいく。