世界中で愛飲されているシャンパン。パーティーや祝いの席には欠かせないワイン。この美しく輝く琥珀色で泡立つワインの歴史は、それほど古いものではない。そもそもワインに泡が立つということはワインの腐敗を意味し、歓迎されることのない現象なのだ。スパークリングワインの発祥や商品化については、どこで始まり誰が行ったのか諸説あり、いまひとつはっきりとしていないようだ。
シャンパーニュ地方では夏の期間が短く気温が早く下がるため、酵母菌が糖分を分解し尽くしてしまう前に休眠状態に入る。よってワインが樽やビンに密閉されてしまってからも翌年の春に再び醗酵を始めてしまう。その過程で発生した炭酸ガスは逃げ場がないためワインの中に溶け込む。このようにして誕生した泡立つワインは、従来の価値観では失敗作であり17世紀までは需要など存在せずシャンパーニュ地方のワイン製造業者にとっては頭痛の種であった。現代では二次醗酵と呼ばれるこの現象も当時のワイン製造者の間ではこのように呼ばれていた。「悪魔の泡」と。
その後は紆余曲折の末に、一時的なシャンパンブームが王侯貴族の間で起こる。しかし、これはあくまで限定的な現象であり18世紀後半まで発泡性ワイン製造者は、ごく慎ましい売り上げに甘んじていた。19世紀初頭に入ってもなお振るわない事業。この停滞し続けるワイン業界を大きく変えることになる人物。それは一人の「未亡人(ヴーヴー)」であった。
後にヴーヴ・クリコと呼ばれるようになるバルブ=ニコルはランス市の中産階級の家に生まれる。彼女の生家ポンサルダン家は繊維業で成功を収めたブルジョワ階級で、父ニコラはランス市で一、二を争う有力者でもあった。政治家としても有能であり、なおかつ柔軟な思考の出来る男だ。いつかは貴族に成り上がることを夢見ている野心家でもある。そんな一族とバルブ=ニコルにとって大きな転機になる事件が発生する。それは後にフランス革命と呼ばれることになる事件だ。この事件が少女だったバルブ・ニコルにどのような影響を与えたのかは推測しか出来ない。だが事業では常に変化を恐れなかった彼女が、終生その私生活においては保守的だったことにたいしての、ひとつの示唆を与える出来事である。
革命を父ニコラは巧みな政治力で乗りきる。しかしニコラの野望である貴族に成り上がることの意味が消滅した今となっては、娘を貴族に嫁がせることは出来ない。バルブ=ニコルは同じ中産階級のクリコ家に嫁ぐことになる。シャンパーニュのワインが世界に飛躍する初めの一歩がこの結婚によってもたらされた。
夫フランソワはそれまでクリコ家の副業だったワインの仲買業を本業の繊維業から切り離し、ワインの仲買商として一本化する。ワインの仲買だけでなく製造にも着手する。当時、ワインの製造は個々のブドウ栽培農家がおこなっており、販売元が製造を手がけることは時代を先取りする革新的なことであった。しかし、時代は革命、恐怖政治、戦争、経済封鎖とフランソワとバルブ=ニコルを苦しめる。彼女の前半生にとってフランス革命に端を発するこれらの問題は常に大きな壁となって立ちふさがる。
革命後の政情不安の中で経営は常に苦しい。そんな時期にまさかの事件が起きる。それはバルブ=ニコルの夢の共有者であり、共に活動してきた夫の死だ。この苦境の中で彼女は27歳の若き未亡人としてクリコ商会を率いる決断をする。その後の幾つかの危機とそれらの克服。彼女の人生は亡き夫と共に築いたワイン製造への熱い情熱に彩られている。そしてその情熱を成功へと導く機知と勇気には感嘆を禁じえない。
この時代は人々の価値観の転換点でもあった。実は革命以前は中産階級が家内工業的に行っている事業で、一族の女性が采配を振るうことはそれほど奇異なことではなかた。だが革命後は次第に中産階級の女性は社交と子供の教育に専念するべきだという価値観が台頭し始める。そんな時代の空気のなかでフランソワと義父のフィリップは彼女が古い価値観のまま行動する事を許した。これは彼女の人生にとって大きな幸福であった。同時にそれはシャンパーニュのワインにとっの幸福でもあった。
常に政治情勢に苦戦を強いられたヴーヴ・クリコとワインだが、ナポレオン戦争末期にチャンスが訪れる。いや、表面的にはそれは危機の顔をして訪れた。ランス市がロシア軍に占領されたのだ。だが逆にこの状況をチャンスと捉え自社のワインをロシア軍に売り込む。その味に魅せられたロシア軍将兵は必ず戦後ヴーヴ・クリコのよき顧客になってくれるはずだ。また彼らの口コミは宣伝として大きな効果を発揮すると彼女は読んだのである。
その読みは正しかった。ランス市に駐留するロシア軍将兵はヴーヴー・クリコのワインに魅了される。その成功をより確実なものにするためには、他のシャンパン製造業者に先立てて戦後すぐにロシア市場を席巻する必要がある。
彼女の勇気、知性、実行力がもっとも輝いたのはこの時であろう。彼女は終戦後すぐ、まだフランスが経済封鎖を受けているさなかに、自社の最高品質のワインを大量に密輸したのである。これは危険な賭けであった。そして彼女はそれに勝利する。ヴーヴ・クリコのシャンパンは経済封鎖解除後どこよりも早くロシア市場を席巻した。将校として対フランス戦争に従軍し、シャンパーニュ産ワインの味を覚えて帰国したロシア貴族たちの心と舌をたちまちのうちに虜にする。これによりライバルのジャン・レミに煮え湯を飲ませることにも成功した。
新たな成功は次の問題を生む。大量に注文が入るようにはなったが生産が追いつかないのである。シャンパンはビンの中で二次醗酵させるため、ビンの中に澱が溜まる。溜まった澱を排除するには膨大な時間と人手がかかる。この問題を「ルミアージュ」という技術の発明で解決したのもバルブ=ニコルである。新たな技術によりシャンパンの製造量は飛躍的に向上した。この技法は10年以上も秘匿され、ヴーヴ・クリコのワインをより有利にしたのである。
時代は家内工業的な産業形態から大規模工業に移りつつある。ヴーヴ・クリコはワインの生産性を上げることにより、時代の要望にこたえることにも成功した。その後も国際競争が激しくなり、より工業化が進む19世紀を巧みな舵取りで乗り切った彼女の知性と大胆な行動力には、賞賛と尊敬の念を禁じえない。なぜなら、それまで家内工業として成功していた多くの名家がこの時代を乗り切ることが出来なかったのだ。
「(前略)世界は絶えず動いています。私たちは明日のものごとに投資しなければなりません。他人より先にいかなければならない。決意を固め、厳格でありなさい。そしてあなたの知性をあなたの人生の導き手となさい。大胆に行動しなさい。もしかしたらあなたも有名になれるかもしれません……」
これは晩年にバルブ=ニコルが、自分に一番似ていると考えていた曾孫のアンヌに宛てた手紙だ。まさに彼女の人生そのものがこの手紙につまっている。そしてこの言葉は変化の激しい現代社会を生きる我々にも多くの示唆を与えてくれる。
今後なにか祝いの席などでシャンパンを飲むさい、美しく澄みきった黄金色のワインの中で光り輝く気泡を見つめたとき、バルブ=ニコルの情熱と決意、そして厳格なその姿を想像してしまいそうである。本書はワイン造りに情熱と知性を注ぎこみ、シャンパーニュの帝国を築いた女性の物語である。
こちらは日本人の著者によるワインの歴史。古代から現代にいたるまでのワインの歴史の物語り。古代からワインは様々な形で変容してきています。知ていますか?中世ではワインといえば甘口の白が高級なワインとして好まれていたのです。今では辛口の赤がエレガントなイメージのワインですよね。実はワインといっても時代により求められるものが違っていたのです。そんなワインの歴史をワイン初心者でもわかりやすく知ることができる一冊です。