HONZで紹介される本の登場人物は規定の概念を越え、既得権益を破壊するルールブレイカーが多いが、本書はルールメーカー側の話、グローバルでのルールの創られかた、創りかたのお話だ。タイトルと装丁はどう考えてもビジネス書なのだが、ビジネスがはじまる少し手前の国際的なルール交渉の世界が舞台である。著者はその舞台で活躍する官僚である。趣味はCSR。20代の頃は米国国務省との交渉やOECDでのルールづくりにはじまり、国際ルールに長く向き合ってきた。参考までに前任は通商政策局通商機構部総括参事官。今は資源エネルギー庁長官官房エネルギー交渉官。長い。著者のブログは要チェックだと思う、僕自身、個人的なファンである。世界を飛び回りながら、ギャグとシリアスな内容を混ぜこぜにした文体にはまってしまう。
さて本題に入るが、国際交渉の中で主導権を握る方法はアジェンダを設定することだ。日本のメディアは交渉での存在感の有無で大騒ぎするが、そのプレッシャーが交渉担当者の国内向けのアリバイ発言を誘発し、交渉力を削ぐことにつながる。アジェンダを打ち出し新しい国際ルールをつくりことは、実は国家のアイデンティティや国際社会が共有する理念と原則が深く関係している。そして、その理念や原則は国家間や地域で異なり、グローバルな規模で衝突を繰り返し、調整されていく。この2つは国際ルールをつくる際の鉄則だ。
理念が実際に強く反映されている例として、インターネット上の個人情報保護の分野がある。主導権はシリコンバレー有するアメリカにあり!と思いがちだが、この分野でもヨーロッパが主導権を握っている。アメリカは消費者保護としての事後的な救済があればよいという考え方、ヨーロッパは個人の基本的人権の理念を掲げる。基本的人権とは、何をそこまでと、大げさにも感じる。しかし、第二次世界大戦時に、スペインとイタリアがナチスに個人情報を渡し、その後の大虐殺につながったという苦い歴史の記憶がある。ホロコーストが厳格な個人情報保護を生んだのだ。強い理念と歴史に立脚したヨーロッパの勝利なのだ。
なぜ欧米、特にヨーロッパはルールづくりに長け、日本は苦手なのだろうか?著者は日本の現実主義的な国民性を引き合いに出す。日本人は誰かが理念を語りだすと、斜に構えて、裏事情を勘ぐり始める。そして、相手の理念を矮小化する。この国民性は第一次世界大戦後から見られた。近年ではヨーロッパから持ち込まれた排出権取引やCSRの概念についても悪い癖のように矮小化する。ヨーロッパではそれぞれ理念があって生み出されたルールであるのに、日本人は相手の深い意図を理解することはない。思わしくない交渉結果になれば、「無垢な日本人」と「陰謀に長けたガイジン」の二分法に転化しがちである。
ビジネスではないが、柔道やスキーのジャンプのルール変更も記憶に新しい。特にスキーのジャンプは長野オリンピック以降のメダル数の激減の一つの理由とされてきた。小柄な日本人にとって、ルール改正は不利だ、日本叩きだ!と叫ばれてきた。が、そのルール変更の背景を知れば、欧米の謀略や意地悪ではなく、理念があり、合理性がある。その理念は選手の安全や健康を守ることだ。減量が飛距離を伸ばす大きな要因となっており、過度の減量が見られた。ちなみにバンクーバー五輪で2つの金メダルを獲得したシモン・アマンは172cmと、ふつうの体格であった。言い訳はできない状況だ。
ルールづくりは日本のお家芸であるものづくりにも深く影響していることは容易に想像できる。ルンバもiPhone+iTunesもグーグルストリートビューも技術は保持しているが、現実主義を乗り越え、新しくルールを創ろうという発想と気概がなかった。特にお掃除ロボットのルンバはそれを構成する技術はどれも日本の得意分野だった。しかし、米国のアイロボット社に先を越されたのは「100%安全性を確保できない」ことを楯にリスクを取ろうとしない姿勢だった。ロボットが仏壇にぶつかって、ろうそくが倒れて火事になるかもしれないとタラレバを言い続け、リスクばかりを気にしている始末だ。新しいビジネスには新しいルールが必要である。
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タイトルが似てる…。
インドのカバティのキャント(途中で息継ぎすること無しに、絶えることなく明瞭に「カバディ」という単語を繰り返すこと)はマントラに由来がある。考えずに集中するため、カバティという言葉そのものには意味がない。日本のアイデンティティや国の理念が表れているルールを探してみた。剣道でガッツポーズをすると一本が取り消しになるものだ。