チューリングテストというものをご存じだろうか?「機械には思考が可能か」という問いに答えを出すために、数学者のアラン・チューリングが1950年に提案した試験のことである。
審判がコンピュータ端末を使って、姿の見えない「2人」の相手と5分間づつチャットする。一方は本物の人間(サクラ)、一方はAI(人工知能)。チューリングは、2000年までにコンピュータが5分間の会話で30%の審判員を騙せるようになり、「機械は考えることができると発言しても反論されなくなる」と予言した。
その予言は、いまだ実現していない。だが毎年毎年、数々の腕自慢たちが「最も人間らしいコンピュータ」の称号を手にすべく、我こそはと名乗りをあげてきた。本書の著者も、チューリングテストの中でも最も有名な大会であるローブナー賞に参加した人物である。
しかし、著者が目指したのは「最も人間らしいコンピュータ」の称号ではなかった。この大会にはもう一つ興味深い称号も存在するのである。審判員から最も得票を集め、さらにその自信度も最も高いサクラに贈られる称号、「最も人間らしい人間」賞の方であったのだ。本書は、そんな人間らしさを追求した著者の挑戦記でもある。
人間とコンピュータの戦いについて語られたものは、数多くある。古くはチェスを巡るガルリ・カスパロフと”ディープ・ブルー”の戦い、一昨年の将棋における清水市代と”あから2010”との戦い、最近では”ワトソン”によるクイズ番組ジョパディへの挑戦などもある。これを愚直に、人間VSコンピュータと読み解くのは、いささか表層的なことでもある。
その多くを僕は「一回性 VS 再現性」という見方で理解していたのだが、本書はそれ以外にもさまざまな争点があるということに気付かせてくれた。考えてみれば、将棋やチェスなどのゼロサムゲームと違い、チャットでの会話というのは、勝ち負けもなければ正解もない。ましてコミュニケーションという人間の本質的な部分がテーマなのである。それをどのような軸で整理すれば、人間らしさを測ることができるのか、本書はそんな視点の提示が見事である。
例えばその一つに「形式 VS 内容」というものがある。 機械の世界では、パスワード、暗証番号、社会保障番号の下四桁、母親の旧姓といった「内容」に基づいて本人かどうかを認証する。だが人間の世界では、顔つき、声、筆跡、署名といった「形式」に基づいて本人かどうかを認証するのだ。そして形式の中でも特に重要なのが話し方なのであるという。
さらに、「意味 VS 経験」という争点も興味深い。チャットボット開発者のコミュニティの世界では「純粋な意味論」と「純粋な経験論」という二つの対立する手法を支持する派閥に分裂しかかっているそうだ。大雑把に言えば、意味論派は言語的な理解をプログラムすることで結果的に好ましい返答が得られることを期待しているのに対して、経験論派は言語的な行動を直接プログラムすることで結果的に「理解」が実現されることを期待している。
機械翻訳に統計的手法が登場し、意味という問題が完全に置き去りにされるという「事件」も起きている。2006年に機械翻訳コンテストで優勝したグーグルのチームでは、コンテストで使用された言語をだれも理解していなかったのだという。このソフトは、意味や文法規則をなに一つ知ることなく、ただ人間による質の高い翻訳との膨大なデータベースを利用して、過去の訳文に従って、語句をつなぎ合わせただけだったのである。
また、ディープ・ブルーとの対決からもさまざまな知見が得られている。それは「定跡から外れるか、否か」というものである。とある対局でディープ・ブルーに敗戦を喫したカスパロフはこう言った「今日のゲームは以前にどこかでプレイされたことがあるだろうから、ノーカウントだ」。
この対局、定跡から外れることのなかったゲームであったのだ。本物のディープ・ブルーと言えるのは、定跡から外れたあとのこと。定跡から外れる前は、なにものでもない単なる過去の焼き直しにすぎない。人間の知恵の結晶とも言える定跡、そこから外れた時に何を感じて、どう行動するのか?これは「知覚 VS 知恵」と言い換えても良いのかもしれない。
圧巻なのは、情報理論を確立したクロード・シャノンによる「情報のエントロピー」という切り口だ。ある状況においてすべての結果がまったく同じ確率でおこる、いわゆる一様分布の場合、エントロピーが最大になると見做す。そこから偏りが強くなるにつれてエントロピーは次第に減少し、最小になるのは結果が決まっている場合とする。情報量を測ることとは、予想外の度合いを測ることとも言えるのだ。
エントロピーという概念のおかげで、人間らしさの根源とも言える独創性をエントロピーで定量的に把握することができるのだという。独創性とは、納得と驚きのバランスにあるのだ。なにが起きるか推理できない瞬間こそ、最も独創的な瞬間と言えるのである。
これらの争点が優れていると思うのは、著者がチューリングテストの大会へ向けて練った作戦が、そのまま「豊かな人生の送り方」というテーマに直結しているということである。いくらスコアアップさせても英語でコミュニケーションできるようにはならないTOEICなどと比べて、チューリングテストとは何と巧みな課題設定なのだろうか。
上記の争点を今一度振り返ると、最近のTwitterなどを眺めていて時折感じる、違和感の正体もクリアになる。背景の文脈を汲み取らず、直前の発言だけを見て反応すること、議論をゼロサムゲームのように扱うこと、相手の言葉を聞き取る気もなくただ批判だけをすること。要は人間らしさに欠けるのだ。botでもできるようなことを、わざわざ時間をかけてシャカリキにやる必要などどこにもない。
また、これらのことは人ごとばかりでもない。今まで考えもしなかったが、HONZのようなレビューサイトが何かにとって変わられるとしたら、それは機械化によるものであるのかもしれない。電子書籍によるソーシャルリーディングなどが普及すれば、本の要約だけなら機械的に作ることなど容易なことであるだろう。
特に危機感を憶えるのは、漢字の予測変換だ。最近僕はiPadでレビューを書くことが多いのだが、いかにも僕好みの常套句が、ここぞというタイミングでサジェストされてくる。このようにして形成されたレビューは、はたして本当に僕が書いたと言い切れるのだろうか。人間らしさとは、インプットとアウトプットの合間でうんうん唸っているようなところにしか存在しないのかもしれない。
本書はコンピュータという非人間的なものと照らし合わせながら見ることで、人間らしさを測るための尺度を明確に浮き彫りにしてくれている。その思索の数々は、どこまでも示唆に富み、哲学的だ。ありふれた毎日、ありがちな事象、いつもの周囲の人々が、これまでとは違ったものに見えてくる一冊だ。
—————————————————————–
日本将棋連盟会長の米長邦雄氏が、コンピュータ将棋ソフト「ボンクラーズ」に負けたということでも話題になった一戦。印象的なのは、米長氏の対局後の以下のコメント。「我々は、コンピュータソフトがプロを負かすのか負かさないのか、そういうことではなく、最善手を求めていくことが我々にとって一番大切なことだと考えています。よってそれが人間であるかコンピュータであるかということはまったく関係ありません。」
レビューはこちら
コンピュータは、クイズ番組で優勝できるか?そんな難題にIBMが挑戦した。その取り組みは見事に成功し、アメリカの人気番組『ジョパディ』でクイズ王を破ったと報道されたのは、2011年2月のことである。クイズの問題には、洒落や語呂合わせ、凝った言い回しなどが頻発するうえ、ルールも質問形式で答えを解答しなければならないなど、複雑きわまりない。おまけに番組スポンサーがSONYということにより、企業間の代理戦争の様相も呈してきてしまう。その詳細をまとめたドキュメント。
今はなきHONZクロスレビューの課題図書ともなった一冊。対決するのは、女流王将の清水市代とコンピューターを169台もつないだ「あから2010」。「あから2010」の秘策は、多数決合議制というもの。「ボナンザ」「GPS将棋」「激指」「YSS」という屈指の将棋ソフトを4つ走らせ、多数決で指し手を決めたのである。はたして勝敗の行方はいかに?