大河ドラマ『平清盛』は、どうやら“苦戦”しているらしい。画面が汚いとか、登場人物や人間関係がわかりにくいとか、視聴率が低いとか、喧しい。そこへまた、劇中の「王家」という表現について国会で問題にされたりと散々のようだ。しかしこれも、「大河ドラマ」という国民的話題になる作品ならでは、だろうか。
かく言う私は、ここ数年の大河ドラマの中では、実に骨太で面白いと思いながら観ている。(今のところ一番のお気に入りは山本耕史クン演じる藤原頼長なんですけれどね。*個人的な感想です!)
ドラマが始まる前の平清盛への印象というと「平家にあらずんば人にあらず」とばかりに思い上がった挙句、一族滅亡。「驕れるものは久しからず、だよ」という言わば“三大傲慢男”の一人であった(あとの二人は「望月の欠けたることもなしと思えば」の藤原道長と「鴨川の水・双六の賽・山法師以外はオレの思い通り」の白河上皇。*これも個人的な感想です!)。まあ正直、「すごい人だとは思うが私利私欲を越えたところでどのような世を創ろうとしていたのか」というイメージがあまり湧かない人物だったのだ。ひたすら一族のみが栄えていく物語ならば感情移入出来そうもないが、さてさてどうなる、などと思っていた。
が、今回のドラマは清盛をどう描くかについて、「瀬戸内海の海運、その先にある大陸との交易を重視することにより国全体を富み栄えさせるという壮大なビジョンを持った男」「源頼朝がうち建て、そののち七百年に及んだ武家による政権の礎となった男」とはっきりと打ち出した。日本の歴史上、異質の人でありかつ大変革を目指した人物として人気の織田信長と相通じる人物像である。信長による“変革”が後の徳川の時代を準備したように、清盛こそが武家の政権・鎌倉幕府の胎盤となったという描き方だ。それゆえに初回のオープニングは、平家滅亡の報を聞き喜びに沸く源氏とその一味の人々の中で、ひとり頼朝が「あの男がいなければ武士の世はなかった」と心のうちでつぶやくところから始まったのだろう。
どの時代のどんな変革であれ、いきなり起こる訳ではない。従来の秩序や体制が綻び壊れていく過程で「このままではいけない」という不満のエネルギーと「変えるまじ」という抵抗のエネルギーがぶつかり合いながら、向かうべき方向の定まらない混沌の中で徐々に充満してゆく。そして、それが破裂する瞬間に居合わせ、がっつりと捉えた者が歴史の勝者として残る。が、それがいつであり誰であるのかは、その時代に生きる者にはわからない。だからこそ面白い。「混沌」は「多様性」でもある。混沌としているからこそ、今までならけっして舞台の中央に立てなかったであろう者たちが次々に登場してくるのだ。そうした混沌の中の多様で複雑な流れが、やがてひとつの大きなうねりとなっていくさまを描く! 大河ドラマはそうでなくちゃね!
とはいえ残念ながら視聴率的に苦戦しているところをみれば、意図した面白さを、エンターテイメントとしては未だ表現しきれていないということなのだろうか。が、奮闘しているではないか! 「努力・友情・勝利」の「少年ジャンプ的味付け」(*またまた個人的な感想です!)も、あれこれテレビの前で突っ込み入れながら楽しく観ております。
その『平清盛』の時代考証をつとめている本郷和人さんが、大河ドラマの時代考証を担当することで見えてきたものを、実際の歴史学の最先端の知見を遠くにきちんと示しながら、そこまでの私たちの距離を教えてくれているのが本書だ。大上段に振りかぶることなく、「ですます調」で軽やかに語られており、とても読みやすい。
本書は大きく分けて二つの内容で構成されている。時代考証をするにあたっての著者の立場や考え方を明示した部分と、(「巻の一 清盛の時代を知る」)、いわゆる日本の中世史、特に「武士の世」とはなんであるかを考えるにあたっての概説である(「巻の二 改革者・清盛はなにを学んだか」)。
前半、時代考証の立場について著者が強調するのは、「時代考証はあくまでも従であり、主役はストーリーだ」ということだ。ノンフィクションの歴史再現ドラマをつくるならば別だが、ドラマ・平清盛はフィクションであること。細部において史実を踏まえることはドラマを重厚なものにするが、一方でフィクションの目的は観る人間の知的好奇心を満足させることであり史実のやみくもな再現ではないことなど、“あくまでもドラマのスタッフのひとり”としてどうかかわっていくかという著者の考え方がよくわかる。
今回のドラマでは清盛は白河上皇の落し胤という設定である。歴代の天皇・上皇のなかでも稀代の個性を持つ白河上皇の血を引いているということが、清盛の人物造形の重要な要素となっている。が、著者自身は学者としては「清盛、白河上皇御落胤説」には否定的だ。しかしこれは学説の分かれるところでもあるとして自説にはこだわっていない。だが、かつて『大河ドラマ・北条時宗』のなかで関白が天皇の御前で切腹するシーンがあったことを例に「何よりも穢れを嫌う朝廷において、上級貴族が切腹(史実は病死)して御所を血で穢すとなれば天皇や朝廷の本質に関わる。こうした根本的な誤りには職を賭して異議を唱える」としている。
そのほかにも、清盛と白河法皇の対決シーンや、のちの後白河天皇である雅仁親王の元服シーンなどを例にとりながら、ひとつひとつの場面において出来る限り史実をもとにホンモノの情景を用意しようとする努力と、ストーリーを面白く展開するための演出との兼ね合いが明かされている。ともすればドラマと史実は混同してしまいがちだが、史実は史実として、ドラマはドラマとして楽しむための見方を学べるところがうれしい。
そして印象に残るのは、著者の、脚本家をはじめとしたドラマ制作者たちへの尊敬と信頼である。学者の立場で「学問」を押し付けるのではなく、ともに作品を作り上げる同志なのだということを、著者自身が大いに楽しんでいる様子が伝わってくるのである。
後半では、ドラマの時代考証を離れて、専門家としての著者がこの時代をどう見ているかが書かれている。
藤原摂関家の政治から、(天皇ではなく)上皇・法皇(総称して「院」)が頂点に立つ院政期、そして平氏・源氏などの武士の世へと、権力の在りどころがめまぐるしく移り変わるなかで複雑な駆け引きと闘争が繰り広げられた時代の詳細は、なかなかにややこしくて理解が難しい。何を軸にして見ていけばよいのか。本書はそれを柔らかく、わかりやすく解説してくれている。日本中世史に興味を持ち始めたばかりの身には、恰好の入門書になってくれた。
権力の在りどころが揺らぎ始める、すなわち「国のかたち」が揺らぎ始めた時代、従来の法と秩序は意味をなさなくなる。「当知行」という概念が中世にあるのだそうだが、これはなにかといえば「その土地を現実に支配している」という意味なのだと言う。このとき公権力からどんな権限を委譲されているのか、正当な地権者であるという文書があるかないかなどは、もはや問題にならない。現実に支配しているかどうかということのみに意味があり、公的・法的根拠はあとから追認されるということである。法・制度的にどうかという「たてまえ」は押しのけられ、実際はどうかという「なかみ」が世の中を決める。「なかみ」を固めてから「たてまえ」で飾る。まさにそうやって東国の実際の支配=「なかみ」を固めたのが源頼朝であり鎌倉幕府なのだが、そうした武力の統括がいったいどこまで「たてまえ」と戦えるのかを身を以て示したのが清盛であり、清盛の出世を目の当たりにしたからこそ、武士たちは自分たちの力量を認識し自信を持った。この意味で、清盛こそは、武士の可能性を追求したパイオニアであり「日本の中世」を切り拓いた人物であるというのが著者の論である。
この「たてまえ」と「なかみ」をどう分析し解釈するかという視点は、著者とはまた違う説を見るときにも軸となってくれるに違いない。本書でも何人かの研究者とその説をあげて、解説してくれている。
「難しい!」と遠ざけていた「日本の中世」を実に面白くガイドしてくれる本なのである。
それにしても、もし清盛が長生きしていたら、その後の権力の帰趨はどうなったであろうか。「源氏を頂点とする武士による統治機構」になったであろうか。武士による政治権力は確立しても、そのかたちはまた別の貌をもったのではなかろうか。日本の「西と東」のあり方も大きく違ったかもしれない。歴史学においては「もしも」は厳禁とされているのだが、一読者としては、そんな夢想を楽しみながら本書を読んだ。
『大河ドラマ・平清盛』も、ますます楽しくなること請け合いの一冊である。